大津市の坂本で、明智光秀さんのお墓に参ってきました。
光秀さんには福知山でもお世話になりました。
近江ネタが増えてきましたこのブログ、こちらでも光秀さんのお世話になることが少なくなかろうと思われます。
お墓があるのは坂本の西教寺です。
光秀の妻、煕子(ひろこ)さんのお墓もあります。
丹波の方ならおわかりになると思いますが、光秀が治めることになった「丹波」をいまの自治体に変換しますと、亀岡市、南丹市、京丹波町、綾部市、福知山市、丹波市、篠山市(の一部)くらいになると思います。
丹波を新たに獲得する以前から、近江坂本の領地がありました。
広いです。遠いです。こんな責任のもたされ方、大変です。
営業で光秀の領地を全部回ろうとしたら、車使ってまる1日かけて、それでもまだ半ばでしょうね。
その遠隔地同士が、私の中できゅっとひとつになりました。坂本を訪れて光秀の墓に手を合わせたとき、近江と丹波がつながった嬉しさを感じました。
鉦の音
本堂の障子戸を抜けて、鉦の音が聞こえてきました。
三浦綾子さんの小説「細川ガラシャ夫人」では、光秀・煕子夫妻と娘玉子(後の細川ガラシャ)が親子でこの西教寺を訪れ、そのときにこの鉦の音を耳にしています。
「カーン、カーンと間をおいてひびいてくる。静かだ。いかにも静かである」と、三浦綾子さんは書いています。
三浦綾子さんの文章を書き写した案内板が、山門をくぐったばかりのところに立っていました。「鉦の音」という章の一部が抜粋してあります。
そこから読み取れる光秀の人間像は、決して野心であぶらぎった謀反人ではありません。
光秀に肯定的な描写が参道に立っていることからも推し量れるように、西教寺は光秀へのシンパシーにあふれた寺院です。「明智光秀公顕彰会」の事務局が、この寺に置かれています。
世の光秀フリークたちがくぐる西教寺の山門は、坂本城の城門を移築したものだといわれています。移築を命じたのは、もちろん光秀。
三浦綾子さんはこう書きました。
坂本城に移ると同時に、光秀は西教寺の復興に力を貸した。信長が比叡山を焼くときも、光秀は全山のために慎重な配慮をした。
かと思えば、福知山城築城時の光秀は、攻撃を加えた寺院にまったく違った側面を見せます。
それら寺院の石灯籠や石仏を石垣の材料として用いたのです。
いまから10年ほど前に福知山城の石垣は修復されました。その工事を請け負った株式会社栗田建設によりますと、石灯籠や石仏があまりに多すぎて気味が悪く、お祓いなしに補修を始める気になれなかったそうです(「司馬遼太郎の戦国1:週刊朝日編集部」による)。
<ちなみに、栗田建設は坂本にあります。戦国の城郭をはじめとする穴太積みの技術をいまに伝える会社で、数多くの史跡修復にあたってきました。詳しくはホームページをご覧ください。http://www.geocities.jp/awata_i/index2.html>
三浦綾子さんが書いたとおり、鉦が響く本堂の周囲は光秀の時代同様の静けさでした。私にもその静けさがよくわかりました。
しかしながら、山門では、どういうわけか大音量の炭坑節が聞こえてきます。
月が出た出た、月が出た。
なんやねん、これは?
見回すことしきり。やっと炭坑節の理由が分かりました。
すぐそこが「真盛苑」という名の老人ホームでした。
デイサービスに来たお年寄りたちがリハビリを兼ねて踊っているのだと思いました。
月さびよ明智が妻の咄せむ
光秀の妻煕子が自らの黒髪を売ってまでも夫を支えた。とても有名な伝説だそうです。
光秀が越前朝倉氏に仕官していた時期、重臣たちのために連歌の会を主催する役目を仰せつかりました。
しかし、当時の光秀夫妻は赤貧で、ごちそうを用意する資金すらも不足していました。このままでは夫の面目が立たない。そこで妻煕子が黒髪を売って金を工面した---というストーリーです。
この逸話を、私は煕子の墓前で初めて知りました。妻に苦労をかけるなんて、なにやら自分のことみたいで、煕子さんごめんなさいという心境でした。
松雄芭蕉は死ぬまで独身だったと聞きますが、妻のない芭蕉の心にも煕子の献身がインパクトを与えたようです。
「奥の細道」の旅を終えた芭蕉が伊勢の門弟山田又玄の家に宿泊した夜、又玄の奥さんが身を粉にして芭蕉をもてなしてくれました。
又玄の妻の内助の功を目の当たりにした芭蕉は、感謝と敬意をこめてこう詠みました。
月さびよ明智が妻の咄(はなし)せむ
芭蕉は、旅路のどこかで「明智の妻の話」を耳にしたんでしょう。耳にしたのは越前、光秀夫妻がしばし身を寄せていた寺ではないかと推察する人もいます。
この句碑が、煕子の墓標の前に立てられています。この一句だけで煕子のイメージが膨らみます。
光秀は愛妻家だったという人たちがいます。先立った妻の墓をこしらえるという行為が、戦国武将としては珍しいからだそうです。
煕子を妻としてからは側室をもたなかったそうですし、美濃から越前への険しい山越えでは自らが煕子を背負って歩いたとも伝えられています。
煕子というよくできた妻を心から大切にした光秀はきっといい人だったに違いない。西教寺に来たら、たいていの人がそんな気持ちになるのじゃないでしょうか。
苦労をかけても大切にすればそれでチャラじゃないことは分かってますけどね。
光秀の墓の前、坂本の秋のなか、宮津の秋と弥栄町味土野の秋を思い出していました。
福知山から大江連峰を越えて上宮津に下りたあたりに盛林寺があります。その寺で、光秀三女の玉子が父親の供養のために建てたと伝えられる「宝篋印塔」を見ました。
玉子と宮津のつながりは、みなさんもご承知の通り、玉子が細川忠興の正室であり、当時の細川家は丹後南半分を領地とし、支配の拠点を宮津に置いたことによるものです。
盛林寺を訪れた日の秋空が印象に残っています。大江山の向こうからこちらまで、とびっきりの秋晴れでした(下の写真)。
その玉子が本能寺の変後に幽閉された京丹後市弥栄町味土野は、そもそもが平家の落人部落です。
土地柄か、あるいは玉子の不幸な身の上ゆえか、あのときばかりは居心地のよくない秋でした。谷の深さが不気味でした。
玉子の夫忠興、そして舅の藤孝、ともに光秀の呼びかけには応じませんでした。親子そろって頭を丸め、光秀に与する意志もなければ光秀との密通もないことを、世に表明しました。
玉子の命を秀吉に差し出すことはありませんでしたが、世間から隔絶された丹後の山奥へと、玉子の身柄を移しました。幽閉というからには社会的活動を何もさせないということです。
玉子の屋敷跡から見える範囲に、雨風にさらされたままの墓石がいくつか並んでいました。そちらを見続けていると帰路で交通事故を起こしそうに思えた途端、背中がぞくぞくっとしたのを覚えています。
写真を1枚でも写したら心霊画像になると思いました。まったくシャッターを押しませんでした。
築130年の鶴喜そば本店
坂本の鶴喜そば本店は多くの人に知られています。
明治天皇から昭和天皇まで、宮中の年越し蕎麦を納入し続けたそば屋さんです。
店のホームページには、「日吉大社、延暦寺、西教寺に御参詣の方々は、何はともあれ話の種にと坂本名物鶴喜そばを御試食になり、皆様御満足頂いております」と書いてあります。
「何はともあれ話の種に」と店自身が言うのですから間違いありません。その気持ちで観光客が立ち寄ります。坂本の大切な観光スポットになっています。
値段は高めですが、観光客の場合は旅の思い出ですし、高いとは言わないでしょう。
つけ汁は、濃い目です。関東の人を喜ばせるくらいに濃いのは、やはり天皇陛下のためでしょうか。天皇陛下は関東人か関西人か。どちらだと思えばいいのかわかりませんが。
そば湯がおいしかったなと、いま思い出しているところです。
紅葉の名所としても有名な坂本。紅葉の季節が来ればきっときれいに違いないと、歩いてみて思いました。
坂本の寺社は面積が広く、また、寺社間の移動距離も長いので、紅葉見物客の密度がおのずと低くなりそうです。京都の紅葉名所よりもゆったりしているのではないかと思われます。
写真でそのあたりをごらんいただけたらと思います。
琵琶湖が見える道路。日吉神社への参道となっていて、両側に桜と紅葉の古木が並ぶ。
西教寺への道からも琵琶湖を望むことができる。
こんないい感じの道が比叡山高校の生徒たちの通学路になっている。
坂本は石垣の町。石積みに秀でた穴太衆が中世から活躍し続け、戦国時代には多くの武将が穴太衆に城郭の石垣を任せた。石垣と紅葉の組み合わせが坂本ならではの秋を生み出す。
石垣に囲まれた道に比叡山高校生徒の姿。休みの日なのに補習か?
坂道だらけの坂本が、比叡山高校の体育部生徒を鍛える。
どこを歩いても石垣沿いの道。これで紅葉が始まれば文句なし。
穴太(あのう)駅に到着した京阪電車。浜大津と坂本を結んでいる。この穴太が、石積み技術集団「穴太衆」の里。
店に入った飼い主を待つハスキー。知らない人にはガブっといくということを、さんざん撫でてから聞かされた。「おかしいな?ガブっといかんかったな」と飼い主が首をかしげていた。
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