岐阜県飛騨市神岡町ーーーといっても「それ、どこ?」の人のほうが多いと思うんですが、そこへ行って鮎の塩焼きを思う存分食べてきたというお話です。
私の横で麦藁帽子をかぶっているのが幸夫さんといって、37年来の友人。二人の後ろを流れるのは高原川。
幸夫さんたちの「ちんかぶ会」が、毎年この時期に、「鮎の会」をやっています。地元の釣り名人の釣った鮎がどんどん塩焼きに変わっていく。それをおおぜいの参加者が食べる。
うまかった。もっと食えと言われても腹いっぱいでしたねえ。
釣るから焼くまで、地元名人の熱意が生み出すおいしさ
鮎400匹、ビール10リットル、会費3000円、参加者60名。「鮎の会」を数値で表すと、そんな規模になります。
「船津座」という多目的施設の川べりのテラスに参加者が集まりました。誰かが「ここは神岡の川床、高原川の川床」と言ってました。その通り。いま食べている鮎が泳いでいた流れを間近に見下ろしながらのイベントです。
昭和生まれの方なら、神岡といえば三井鉱山の町として記憶されているかもしれません。
その三井鉱山OBの友釣り名人Mさんが、「鮎の会」のための魚を一手に引き受けています。昨シーズン終盤と今シーズン解禁後に捕獲した400匹が用意されました。
釣ってからこの日まで、鮎はカチンカチンに冷凍されています。なによりも鮮度。これが味の分かれ目です。名人の自宅には、真空パックができる急速冷凍機とマイナス60度での保存を可能にする大型冷凍庫があります。
釣ってきた鮎を、まず一晩は自宅の生簀に泳がせておく。これがひとつの重要ポイントだそうで、冷凍前に排泄物をすべて出させてしまうのがおいしさを保つと共に川魚の臭みを出さないコツだそうです。
鮎の友釣りというのは、元気な鮎で元気な鮎を釣る方法ですから、釣った魚を生かしたまま持って帰ってこられます。詳しくは下図を見ていただくとして、名人と呼ばれる人たちは鮎の体力を無駄に消耗させることなく釣り上げ、次から次へと元気な鮎を増やしていきます。「鮎の会」の鮎のおいしさは、鮎の元気さを損なわないMさんの名人技、そして、鮎が元気なうちに生簀に移せる生活環境がまず第一番目のキーポイントです。
鮎の友釣り:その仕組み
一夜置いた鮎を殺すときにもやり方があります。生簀から取り出した鮎を氷水に入れて急激な水温差で即座に死なせる。神岡の鮎釣り好きにとってこれは常識ともいえるシメ方です。私も何度か見たことがあります。鮮度を殺さず鮎だけ殺すといった手法でした。
急死直後の鮎を急速冷凍機で真空パックにしていきます。Mさんは年金暮らしの三井鉱山OBにすぎず、職漁師でもなんでもないんですが、おいしい鮎を食べさせたい気持ちの余り、個人で業務用の冷凍設備を買い入れたそうです。「で、かあちゃんに叱られた」と、参加者のひとりが言ってました。
そして、最終ステップが現場での焼き方です。鮎の味にかける熱意までが冷凍保存されてるんですから、焼く段階で味を落とすわけにいかない。それではかあちゃんに叱られた甲斐がない。
ポイントは、脂の汁をポタポタと落とさないこと。炭火の輻射熱でじっくりとあぶり続け、おいしさを閉じ込め、外はパリパリ内はホクホクに仕上げなくてはなりません。脂の汁が炭火にしたたり落ちると、脂くさい煙で魚をいぶすことにもなってしまいます。
真空パックから取り出した鮎を真水で解凍し、魚体を波打たせながら金串に刺していきます。尾びれにたっぷり化粧塩をこすり着けたらそれを炭火の周囲に立てていくのですが、真夏の暑さと炭火の熱さが一体化して、やってる人たちは全身が汗だらけ。人間が塩焼きになってしまいそうです。
理想の焼き具合を目指した鮎焼き機を自作した、三井鉱山で使われなくなった器具を改造したと聞いていました。今年の鮎焼き機は聞いていたよりもさらに改良されていました。
写真で見ていただく通り、串に刺した鮎をステンレスの輻射板で取り囲み、中心に置いた炭火の熱を無駄なく内側に返す仕組みです。囲炉裏の遠火で時間をかけたような焼き上がりを短時間で達成できるんだなと感心しました。
焼き上がった鮎は製菓店の業務用トレーに並べられていきます。参加者はそのトレーから好きなだけ鮎をとって、発泡スチロールの皿で自分の席まで運びます。
考え様によっては贅沢なことで、高級料亭なら立派な皿に一本だけ載せられてくるであろう天然鮎の塩焼きを、バーベキュー用のスチロール皿の上に無雑作に何本も山積みして、むしゃぶりつく、かぶりつく。しかも、高級料亭といっても、釣る時点から品質管理を始めているわけではありません。塩焼きをたくさん食べる→いくらでも喉が渇く→ビールがビールが進むクンという構図です。
私はいったい何本くらい食べたのでしょうか。10匹くらいは覚えています。うちの妻お龍が「おとうさん、頭もおいしいのよ。全部食べられる」と言ってからは残った頭の数を目安にできず、そこからが定かではありません。しかもあちらのテーブル、こちらのテーブルと渡り歩きながら食べています。
参加した奥さん方が持ち寄ったおにぎりや酢の物。酒を飲まない私は喉が渇くたびにウーロン茶やらコーラやらをがぶ飲み。イベント半ばにして腹がポンポンに膨らんでいました。
高原川沿いに建つ「船津座」と川べりの「鮎の会」会場。船津座本館の1階では地元の同窓会が開催され、2階では盆踊りの練習が行われていた。同窓会や盆踊り練習をやめて「鮎の会」に参加した人もいた。
神岡の町は山に囲まれている。太陽が山の陰に沈むとあっという間に夜がやってくる。標高455m、8月の最高気温は30度を少し超えるだけの神岡町だが、この夜は気温以上に蒸し暑かった。
自作の鮎焼き機。炭火を真ん中に据えてステンレス板で鮎を囲み、輻射熱を無駄なく使ってじんわり焼き上げる仕組み。魚体からポタポタと脂を落とさないことが大切。
焼き上がりを常にチェックしているのは幸大(ゆきひろ)クン。「鮎の会」に来いという電話が彼からかかってきた。幸大クンに出会ったのも37年前の神岡。幸大クンはまだ小学5年生だった。高校卒業後は金沢の釣具店に就職していたが、いまは地元に戻って「峡や」という居酒屋を経営している。
急速冷凍と同時に真空パックされた鮎を真水で解凍。眼の勢いを見れば新鮮さが分かる。どの鮎もいま死んだばかりのような体色だ。
串に刺す。高原川に魅せられた大阪の鮎釣り名人が黙々と串打ちを繰り返していた。職漁師といわれるほど友釣りの腕が立つ人らしいが、釣り名人すべてに共通するのは単純作業を決しておろそかにしない忍耐強さ。
焼き上がった鮎がトレーに並べられていく。イベントは午後6時スタートだが、人が集まったときから充分な塩焼きが供給できるようにと、午後3時から鮎を焼き始めた。
わが妻お龍、地元の盆踊り練習に参加
なんでおまえまで盆踊りの練習してるねん!?
船津座2階の広間で地元の人たちが盆踊りの練習をしていました。8月14・15の両日、神岡町の氏神様である大津神社の境内で盆踊りが開催されます。
一緒に練習に行こうと幸夫さんの奥さんに誘われたお龍ですが、やり始めたらすぐ本気になっていました。
盆踊りってさあ、私たちのほうでは炭坑節とかソーラン節ばっかりだったのよ。今夜の踊りはすごくよかったわ。とても本格的。ほら、富山に越中八尾おわら風の盆ってあるじゃない。あれみたい。練習なのにお囃子も唄も生演奏なのよ。
お龍は何も知らないでしょうが、この盆踊りは船津盆踊りといって、県の無形文化財に指定されているほどの由緒正しさです。炭坑節とはわけが違います。
炭坑節は、掘って掘ってまた掘って、かついでかついで後戻り、ですよね。船津盆踊りの場合、岐阜県教育委員会によれば、「手の振りなど腰の線より上での動作が大振りであり、ときに手足同じ方を出して踊るところもあって、踊の古い形を十分に残している」といいます。
練習風景を見ていますと、掌を開き指先を伸ばすのではなくて、握りこぶしで踊っています。踊りの先生が言うには、農作業の動作を元にした振り付けだそうで、翌年の五穀豊穣を祈る力強い踊りなんだそうです。どじょうすくいにも似た所作が出てきますが、それは脱穀を表しています。
農作業に起源をもつ振り付けといえば、おわら風の盆もそうです。ふたつの踊りが似ているというお龍の感じ方に大きな間違いはありません。
どの人も本当にやさしいの。私なんてよそ者でしょ。でも、心温かいっていうの、当たり前みたいに入れてもらってね。
もちろん、神岡の人たちの心の広さ。加えて、よそ者が覚えたがるのも当然の格調高き踊りだからです。
お龍が盆踊りをやったのなら私も負けていられません。この後、私は、「鮎の会」の会場でハワイアンを踊ります。
ミッチー・くまかげとハワイアンブラザーズ登場
「鮎の会」も宴たけなわとなりました。午後8時。なんと55kmも離れた富山市からハワイアンバンドが駆けつけてくれました。「ミッチー・くまかげとハワイアンブラザーズ」だそうです。メンバーは富山第一銀行関係者ばかりだとか。富山市のどこかの夏祭りで演奏してきたばかりで、この日はこれが2ステージ目だそうです。
メンバーのひとりが富山第一銀行神岡店の支店長代行を務めている方だそうで、そこで無理を言って来てもらったんだと幸夫さんが言っていました。支店長代行としましても、これだけの見込み客が集まっているのではむげに断るわけにもいきません。
何曲目だったかの演奏が加山雄三の往年のヒット曲「お嫁においで」でした。「飛騨さしこ」の大家として知られる78歳の女性から一緒に踊ろうと誘われました。バンドのすぐ前に出て踊りましょう、と。
飛騨さしこについて、「有限会社飛騨さしこ(高山市)」のサイトは以下のように述べています。
山深い飛騨は交通が大変不便で、昔は織物等の入手も困難でしたから多くは自給自足でした。そのため綿や麻を糸にして織り、それを自分の手で染める事が女の努めでした。
布に模様を染め抜く技術等は持っていませんでしたので、単色の紺、浅黄、渋茶等の着物を着ていました。若い女の人たちは自分の上着の一部に自分好みの簡単な模様や図案を白糸で縫いつけて用いました。
そのような伝統技法の大家から踊りのお誘いを受けるなんて身に余る光栄。たとえ相手が78歳だとはいっても、断るだなんて身の程知らずです。
で、その女性と一緒に ー 仮に飛騨刺し子さんとしておきますが ー 即興のハワイアンダンスを参加者のみなさんに披露しました。テレビで見たフラダンスの振り付けを思い出しながら、です。嬉しいことに誰かがビデオ撮影してくれてるじゃありませんか。思いの他みなさんにウケました。
ところが、帰り際、飛騨刺し子さんに挨拶したら、一緒に踊ったことをまったく覚えていない。「誰でしたか?」と言ってます。踊ってるときはあんなに燃えていたじゃないですか。
あの様子ですとだいぶ酔っ払ってたんですねえ。酒が飲めない私はシラフだったんですよ。踊ってるときよりも「誰でしたか?」と問い返されたときのほうが数倍の恥ずかしさでした。
ちんかぶ会とは何ぞや?
神岡鉱山資料館から見下ろす神岡町の中心地。西里橋を渡った先は古い商店街。三井鉱山の最盛期にはこの町に27000人が在住していた。現在の人口は9000人を切ったが、標高455mにこれだけの規模の町が維持されているのは日本唯一だという。「にんべんに山と書いて仙人、にんべんに谷と書いて俗人。わしは山のほうやから、たとえ霞を食うことになってもここにへばりつく」と幸夫さん。そして言う。「地域を変えるのは、若モン、馬鹿モン、よそモンより他におらん。わしは若モンでもないし、よそモンでもない。けど、馬鹿モンだけはしっかり続けとるでな」。
30歳前の私は、金沢市と富山市に住んでいました。フライフィッシングを始めたばかりでした。神岡は岐阜県のなかでいちばん日本海に近い町で、金沢から2時間、富山から1時間ほどのドライブでした。
北アルプスに水源を持つ高原川は、鮎ばかりかアマゴ、イワナ、ニジマスも多い川で、格好の修業道場として毎週のごとく通っていました。
その神岡でなぜか意気投合してしまったのが幸夫さんです。私と同い年で、その当時は高原川漁協で増殖担当の下っ端をやっていたと思います。今回久しぶりに出会った幸夫さんは副組合長になっていました。これが歳月というやつです。
「ちんかぶ会」が誕生したのもその頃です。会の名前になった「ちんかぶ」は清流魚カジカの地方名です。神岡ではチンカブですが、金沢ではゴリとして加賀料理の代表的食材になっています。
カジカは、清冽な水質を好む魚種であるばかりか、ダムや砂防堰堤など生息環境破壊に敏感であるため、川の自然度を如実に反映する指標生物だとされています。高原川への愛着心から自然発生したグループがちんかぶを名前に使った。それは、川は人だけのものじゃないというメッセージでした。
神岡に行きますと、マンホールの蓋にちんかぶの絵柄が用いられています。この絵柄は「ちんかぶ会」誕生以降のことで、ちんかぶマインドが行政にまで広がった証だと私は受け止めています。
いや、しかし、「ちんかぶ会」が何をアジテートしてきたわけでもありません。高原川に落ちている空き缶などのゴミ拾いを決まった日曜日に続けてきただけです。活動というよりも善行であり、イデオロギー色も政治色もなく、やりたいと思うことに出会うたびに迷うことなくやってきた。それが「ちんかぶ会」の実態に即した言い方でしょう。
発足当時のコアなメンバーは幸夫さんをはじめ10人くらいでした。現在でも正式メンバー数は20人を超えたくらいです。それでも、毎年8月の「鮎の会」は多くの参加者を集めます。メンバーではない人がいっぱい来ているのです。
「鮎の会」参加者と「ちんかぶ会」のつながり方は種々雑多で、私のように遠くからの参加もあれば、ブログに書いてしまっていいのかどうか分からないくらい社会的地位の高い人物も顔を出していました。今年の60人はまだ少ないほうだといいます。「鮎の会」の初回に参加した記憶では、まだあの頃は、気の合った仲間同士の飲み会にすぎませんでした。
これだけの人を集める「ちんかぶ会」の求心力。それを掘り下げて語るには神岡町の地元事情にもっと精通する必要があります。残念ながら、私はそこまで神岡に詳しくなくて、「ちんかぶ会」への共感が、まるで漢方薬の効き目のように、長い月日をかけてじわじわと浸透していったのだろうと類推するばかりです。
自分の場合を振り返れば、「ちんかぶ会」は、よそ者である私の受け皿役を果たしてくれました。
ただ釣りに来て帰るだけであれば地元とのつながりは要りません。あの頃の私は金沢や富山の仲間たちと「TROUT WAGON」という釣りグループをやっていて、釣り人自身の手で釣り場をよくしていきたいと願っていました。
その時代の野心を話し始めるとフライフィッシング愛好家にしか分からない中味になってしまいますから省くとして、高原川をもっとフライフィッシング向けの川に変えていかないかと幸夫さんに語っていました。
私の提案は「ちんかぶ会」向けではなかったと、いまになって分かります。でも、なんだか幸夫とウマの合う奴が幸夫と同じようにワーワー言うとるぞということで、サルノコシカケ程度の小さなポジションを得ることができました。
「ちんかぶ会」の顔ぶれは、商店主だったり、これから稼業を継ごうかという二代目でしたから、正真正銘の地元民に思いを伝えている充実感もありました。少なくとも淋しい片思いではないという安心感でしょうか。
私は転勤族でした。いずれどこかへ行ってしまう私にできたのは、いろいろな仲間を幸夫さんたちに会わせて、神岡の町ごと高原川のファンになってしまう釣り人を生み出すことくらいでした。それでも、自分が広げた人の輪もたしかにあったのです。
「ちんかぶ会」をよく知っているつもりなのにそんなことしか思いつかない自分を歯がゆく感じながら、大いに飲み食いし、大いに語り合う人たちを眺めていました。盛り上がる人たちを眺めつつ、「ちんかぶ会」が生み出した人間関係をブログにどう書こうかと頭をひねっていました。
これは自治会や商工会の夏祭りではなくて、集まりたい気持ちだけを動機にした集まりです。それを軽々とやってのける「ちんかぶ会」とはいったい何なのか。それをブログにしたいなと思っていました。
「場所を船津座にしたのは」と幸大(ゆきひろ)クンが言いました。37年前に彼と初めて会ったときはまだ小学5年生の男の子でした。
「屋根があったほうがええという人もおったからやけど、それよりも9時半で終われるもん。船津座が9時半までになっとるし。船津座にする前は始まったら終わらんかった。だって、終わる理由がないんやから」。
終わる理由がない。そう聞いたとき、「ちんかぶ会」の何たるかにわずかながらでも近づけた気がしました。
平湯温泉からの最終バスが西里橋を渡ってきた。18時59分。神岡町から25kmほどで奥飛騨温泉郷、そのまた奥は安房トンネル(標高1780m・長さ4.4km)を経て長野県の上高地や松本市に至る。このルートで行くと東京まで300kmしかない。
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