原作を読んだときから、小学4年生の柄崎恭平少年と天才物理学者湯川学の取り合わせに大きな魅力を感じていました。上の写真は、映画のラスト近く、小さな駅舎で二人が話すシーンです。泣けました。
映画館を出たら視界には琵琶湖の夜景。見慣れているのに、この夜ばかりは意味深でした。
琥珀の勉さん殺される
あ、琥珀の勉さんだ。
NHKの連続朝ドラ「あまちゃん」の出演俳優を目にしますと、すぐこんな調子です。さっきも十津川警部シリーズで蟹江敬三さんが弁護士役を演じてるのを見て、「あ、じっちゃんだ」と思いました。
あまちゃんでは琥珀の勉さん役の塩見省三さんが、この映画では塚原正次という64歳の男性を演じています。この塚原正次が、海の美しさを誇る町・玻璃ヶ浦を訪れ、緑岩荘という家族経営の旅館に一泊します。
翌朝、海岸の堤防下に連なる岩場で、死体が発見される。死体の身元は塚原正次でした。これは事故か、殺人か。
というところから、ガリレオこと湯川学の謎解きが始まります。解けば解くだけ痛みを伴う殺人事件です。ハカセ(湯川学)との出会いで科学的思考を少しだけ身につけた柄崎恭平少年は、その成長ゆえに、何がどうだったのかを正しく気づくに至ります。少年の無邪気な心にも淡い影を落とす痛み。ハカセは痛みの共有を恭平少年に誓って、二人の短い夏が終わりを告げます。「忘れるな、君は一人じゃない」。
原作を読んでおいてよかった。この映画の運びでは、事前学習なしでついていけるもんじゃない。そう思いました。
前田吟さんと山崎光クンに感服
監督は西谷弘さんです。西谷監督が作品にしすぎたというのか、狙いすぎたというのか、筋道のわかりやすさを犠牲にしてでも冗長さを避けようとする意図を感じました。物語が成り立つギリギリの線まで原作を削ぎ落としてあります。
その分、俳優さんたちの責任は重くなります。原作からはしょられた部分、たとえばどんな人生を送ってきた人物なのかといったことまでをキャラに組み込んだ演技、無言のうちにも説得性のある演技が求められます。何がどうはしょられていようとストーリーがちゃんとつながって見えるのは、見えない状況が俳優さんたちの向こうからどことなく伝わってくるからだと思いました。
とくにグッときたのは、前田吟さんと山崎光クンでした。
前田吟さんは、緑岩荘の主である川畑重治を演じています。
山崎光クンの役どころは、湯川学と玻璃ヶ浦の短い夏を共にする少年。小学4年生の柄崎恭平です。
被写体にぐっと近づく寄り気味カット、ズームなしパンなしでカメラをずっと静止させたまま人物の表情や仕草を捉え続ける。その手法が目立ちました。余計なものは映さず、まさに演技を映すやり方です。
そんななか、大写しにされながらも抑制のきいた演技を求められることの多かった前田吟さんは、この「真夏の方程式」で寅さんシリーズの博から脱皮することができたと述べています。前作「容疑者Xの献身」では堤真一さんが迫真の演技を見せ、あれは堤真一の映画だと言われたほどです。今回は前田吟さんが同じような存在感を示しました。
山崎光クンは、湯川学に触発され内面的な成長を果たす役柄を演じています。ラストに向けてものごとの筋道を自らの頭で考える子供に変わっていくのですが、彼の表現してくれた真夏は素晴らしいものでした。
夏休みも終わりに近づいた頃のなんとも感傷的で詠嘆的な心持ちは、誰の胸にも同じように訪れます。あれだけ咲き誇った百日紅さえもが散りゆく切なさです。少年の心に現れた変化が夏の切なさや郷愁を増幅させるのか、とにかく泣けました。
湯川学と恭平少年が堤防からペットボトルロケットを沖合い200mまで飛ばすシーンは、原作でも映画でもいちばん心に残りました。
吉高由里子さんの本当の魅力を知った
もうひとつ驚いたのが、吉高由里子さんでした。魅力ありますねえ。
原作のガリレオシリーズでは、いずれの物語にも警視庁捜査1課の女性刑事内海薫が登場し続けています。湯川学と内海薫のコンビがガリレオシリーズのお約束事項です。
いっぽう、映画は内海薫を引っ込め、その代わりとなる新キャラを設定しました。それが吉高由里子さん演じる岸谷美砂です。内海薫の後を引き継いだ女性刑事という設定です。
湯川学と名コンビだった内海薫役は、柴咲コウさんが演じていました。あれだけ人気のあった柴咲コウさんですし、内海薫自体外してはならない人物なのですが、なぜか今回急に引っ込みました。
映画のパンフレットによりますと、柴咲コウさんのほうから降板の申し出があったとのことです。前回の「容疑者Xの献身」を通して内海薫は湯川学の変人性を理解できる役柄になってしまった、変人に手を焼く役柄でなくなった、そんな内海薫では観客が変人を見る目を代弁できない、もう必要ないでしょう、という趣旨だったそうです。
たしかに、あの終わり方でいけば、湯川学と内海薫が恋仲にならないとかえっておかしい気がしました。でも、どうなんでしょう。うまいこと言うて、それが本当の降板理由なのでしょうか。
月曜日午後9時からフジテレビで放映されていた「ガリレオ」のほうからも内海薫の柴咲コウさんは消えて、吉高由里子さんの岸谷美砂が登場しました。
そちらのほうの吉高さんは、渡辺いっけいさんや太田川稔さんとの絡みがうまくいかず、それが毎回のノイズになっていると感じていました。渡辺いっけいさんもわるい。あの人はそもそもが舞台仕込みの大きな演技です。吉高さんと噛み合ってもいないのに、いっけいさんは相変わらずの過剰なリアクションで、不自然に感じられてなりませんでした。
ところが、この映画の吉高さんはまったく違いました。ノイジーな芝居はまったくなくて、それが幸いして本当の魅力がしっかり表に出ていると思いました。
「真夏の方程式」は、ドラマで放映されている各ストーリーよりも時系列では後にくる出来事です。岸谷美砂が新米を脱け出して地に足がついてきたとの想定です。妖艶さを出してナンボの吉高さんに対して、ドラマは青臭さやかわいさを求めました。映画ではそこの無理難題がなくて助かったのでしょう。視聴率目的の出演陣のなかで無用の苦労を強いられるなんてこともなかったのでしょう。
それに、なによりも、捜査進展に伴う女性刑事の思考変化や感情推移を演じる役柄ではありませんでした。ガリレオシリーズは、内海薫に現れる変化が登場人物すべての変化を代弁します。柴咲コウさんにできて吉高由里子さんにできないのは、その代弁効果です。演技力がどうこうではなくて、漂う空気の違いだと思います。
ぜひ原作を読んでから
人を描き、人の心情でストーリーを紡いでいくという西谷弘監督の演出意図を楽しめたのも、原作を読んで筋書きを知っていた余裕だと思います。でなければ、こんなもん西谷監督の独りよがりだという反発が先にきたことでしょう。
前作の「容疑者Xの献身」をはじめガリレオシリーズは、誰が犯人かを冒頭に見せてしまうのが常道です。犯罪を隠すために仕組まれたトリックは最初から明らかにされていて、それを湯川学が見破っていく。その推理過程が順次描かれていきますから、原作を知らなくても筋道はだいたい把握できます。
でも、今回は、物語前半では犯人を隠しておいて、ストーリーのなかで犯人の特定が進む構成になっています。人間関係も単純ではありませんので混乱しやすい。筋道をあらかじめ把握しているかどうかで登場人物に感情移入できる度合いが大きく異なると思います。はしょられた部分のいくらかは俳優さんの力量がカバーするとしても、どれだけ伝わるかは観客の想像力にお任せですから、やはりおのずと限界があります。
地方の小さな町の殺人事件に警視庁捜査1課の岸谷美砂が顔を出すというのも推理物としては現実感のない設定です。原作では、警視庁まで動き出す必然性がきちんと描かれていますし、その必然性を通して殺された塚原正次の人となりが伝わるようになっています。
原作では、緑岩荘に飾られている海の絵も大きなキーポイントです。この絵がヒントになって複雑な人間模様が解明されていきます。と同時に、あの絵は、杏さん演じる川畑成美への共感を誘う大切なツールにもなっています。
成美の人間性が原作どおりに描かれていたら、モデル体型の杏さんと青く美しい海の織り成す映像美もさらに魅力を増しただろうにと残念でした。杏さんのしゃきっと伸びた背筋、形よさげな乳房までもが成美の夏をもの語ったことでしょう。そして、成美や塚原の苦悩を通して、白竜さん演じる仙波英俊の存在理由にさらなる重みが加わったはずです。
塚原正次の人柄、川畑成美の思いがあって、この殺人事件の理不尽さ・悲しさが際立ち、表沙汰にしてはならない真相を胸に秘めたまま玻璃ヶ浦を去ることにした湯川学の選択がどうにもならない切なさを置き去りにします。それでよかったのかという割り切れなさが私たちのほうにも残ります。それがこの物語の苦味・渋味だと思うのですが、西谷監督はそこの深さまで削り取ってしまいました。
そのような映画作りだけに、ぜひとも原作を読んでからとオススメしたい。そのほうがチケット代を損しなくて済むと思います。
そして、最後に、福山雅治ファンの皆様、あなたのMashaは文句ナシ。カッコいいですね。
私の知り合いも大のファンでして、ある夜、娘さんに尋ねたそうです。
ねえ、もしお母さんがMashaと結婚したら、あんたどうするの?お父さんのところに残る?お母さんについてくる?
娘さんは冷たくひと言、「アホちゃうの」と言い放ったそうです。みなさん方も、そんなアホなことを、たまに考えておいででしょうか。
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