滋賀県大津市葛川の「三の滝」へ行きました。
前の記事「太鼓廻し」と関係があって、太鼓廻しのいわれは、この三の滝が舞台になっています。
真夏の川歩きは天国気分。街にいて「暑い、暑い」と言ってるくらいなら行くにかぎる。
比叡山の回峰行の雛形を築いたという相応和尚が、三の滝で生身の不動明王を見たとの言い伝え。
どのような滝なのか、この目で確かめたくなりました。
川通しで行こう!
登山道を歩いても行けますが、季節柄、谷をずっと遡行していくほうが楽しめます。
明王谷は葛川明王院のすぐ近くを流れています。このあたりですと、容易に川に下りられて、家族連れや若いカップルが浅い流れで遊んでいることも少なくありません。孫の聖太郎がもうちょっと大きくなったら一緒に来たいものです。
明王谷は、沢登りの人たちに人気があります。
上流のほうから、ウエットスーツの人たちが次から次へとやってきました。沢登のグループです。子供が多いところをみると、沢登り教室をやっていたのでしょう。
リーダーらしき人に尋ねました。
ー 三の滝まで、難しいところ、ありますか?
その男性は首をひねりながら、
ー あります。あ、巻けばいいか。
「巻く」というのは、「高巻き」のことで、大きな岩や高い滝に進路を阻まれたときには、いったん流れを離れて岩肌や山肌を登ることです。
ー ということは、ロープがなくてもいけますね
ー ええ、それは大丈夫ですよ。
あの人の答え方を、「そりゃ、やっぱり、ちょっとは苦労しますよ」というくらいに受け止めればいいのでしょうか。
その苦労とやがて出会うことになります。高巻き余儀なしの場所に差し掛かりました。
高巻きするときは、斜面に生えている木や草を頼りにします。山肌は常に湿っていますので、足場がよくありません。木や草を手でつかむことによって荷重を両手両足に分散させ、まあ、いわばごまかしごまかしで進みます。
こういうとき、比叡山の荒行僧には遠く及ばないにしても、類似の心境を味わうことがあります。
私のつかんだ木や草が、あんなに軟弱な山の斜面に力強く根を張っていてくれるから、おかげで滑落せずに登っていけます。
すっぽ抜けそうにはないやつを見定めてつかんでいるのだから無事で当たり前だといえるのですが、それ以前に、木や草がちゃんと根を張ってくれている、頼りにできる。
そのことがなによりもありがたい。もし何もなければ私は何もできません。
こんな小さな一木一草に助けられないと無事に渓谷を登れないのも人間なら、その渓谷全部をダムに沈めてしまえるのも人間です。
それなら、そのどちらでもない何かになれないものか。
人間であることから離れたい。その向こうへ行きたい。突き抜けたい。
そんなことでええのかどうか知りませんけど、そういう心境になってきます。
まもなく二の滝が現れました。自信のある熟練者は、滝つぼを泳いでいって真っ白に落ちる水のなかを登ります。シャワークライミングといいます。上手にできたらめっちゃ爽快ですが、私程度ですとたいていは途中でにっちもさっちもいかなくなります。
アマゴがいました。二の滝の岩をよじ登ったところに細長くて深い廊下状の流れがあります。フライフィッシングではプールといいます。
こういう場所では、魚が水面近くに浮き上がって餌を待ち受けながら一定のコースを巡り続けていることが多い。私たちは「クルージングしている」と言うのですが、このときもアマゴがクルージングしていました。
後で出会ったフライフィッシャーから聞いたところでは、このプールはかつてものすごくよく釣れたそうです。イワナもおったのになあと、彼は振り返っていました。
このアマゴのプールから三の滝まではさほどの距離ではありませんでした。滝が近づくに連れて大きな岩が増え、両岸はより迫ってきます。渓谷が圧縮されたような閉塞感に包まれます。
何かあったらあったときのこと、そう思い切りをつけて岩から岩へと飛び渡るポイントもありました。
視界に滝が入ったときの心持ちは、「いや、なるほど」のひと言です。相応和尚がこの滝に向かって一心に祈りを捧げていたら滝つぼの水中に火焔の不動明王が現れたという。
ウソやなさそう。そう納得しました。
三の滝まで来て目的を果たしました。ここで林道に上がります。
比叡山の坊さんたちはここをどう昇り降りしたのだろう、草鞋で。
それくらいに斜度があって滑りやすい崖を、必死のパッチで這い上がるが如くに登っていきました。
ロープが何本もぶら下げてあって、それを頼りに昇り降りしろということなのでしょうが、ロープを必要とするような斜面をいくのは余計に危ない。ショートカットのルートが危険なだけに、そこにロープが吊り下げられているということです。
落ちれば、死ぬか、大怪我。こういうケースで、木や草の生命力が本当にありがたい。よくぞ根をしっかり張っていてくれた、よくぞ抜けないでいてくれた。
崖を登りきったところが、滝見台と称される平地です。ここからの滝全景はネットでもよく見ます。
林道を歩き始めたら夕立がきました。強い降りでした。
いまさらどれだけ濡れても大差なしの身がありがたく、すたすたと歩きました。
今日の谷歩きでは胸までの水深を何度か渡りました。
男というのはおかしなもので、いっぺんキンタマまで水につかってしまうと、あとは胸までであろうが首までであろうが、水深が気になりません。これ、もしキンタマがなかったら、どうなるんでしょう。
広葉樹のトンネルが続く林道歩き。隙間からは雨にかすむ峰々を望むことができます。
いったいいつのこと以来なのか、それを自覚できないほど、心が落ち着いていました。心の静かさを自分で感じられるなんて、よほど心が静かでなければこうはいきません。
やはり、この明王谷には人を変える力があったのか。
なんか、なりきってしまった気分で、葛川の集落へと下りていきました。
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