7月18日、葛川明王院まで「太鼓廻し」を見に行きました。比叡山延暦寺の行者と縁深い行事です。
ただならぬ気が満ちる明王堂
毎年7月18日、大津市葛川の葛川明王院(かつらがわみょうおういん)では「太鼓廻し」という行事が行われます。
下の写真のように、この夜は明王院の明王堂が開放され、地元の人、天台宗の信者、よそからの見物客が、太鼓廻しの始まりを待っています。
平日だったから人が少なかった。土曜と重なればすごいことになるらしい。
始まるのは午後10時です。なぜそんなに遅く始まるのか。何人かの地元の人に尋ねましたが、「さあ・・・」と首をかしげるばかりでした。太鼓廻し保存会の人は、「早いほうが人を集めやすいんですけど、まあ、いろいろあってねえ」と言います。
この人の本当に言いたかったことに、すべて見終わった後で気づいたような気がします。比叡山の修行が相手だから。それではなかったのでしょうか。
修行のきまりごとに理屈なんてものは介在できません。7月18日午後10時になったら太鼓廻し。やるべきこととしてそこにあるだけです。いいとか、わるいとか、考えたらあきません。価値判断したがる己を捨て、最終的には人であることすら捨て去って、その向こうへ行ってしまうのが修行だと思います。
そうだなあ、そっちのほうがいいから変えようかと叡山が言えるようならば、それは修行ではないのです。
明王院の午後10時は夜の深さが違います。人の世界と山の世界が、明王院を境に接しています。標高1214m武奈ヶ岳への登山道が、明王院のすぐ裏から始まります。山から下りてくる重い闇をかろうじて照らすのは、明王堂内の電灯のみ。普段の生活ではここまでの夜陰を知りません。太鼓廻しを見慣れた人たちの打ち解けた会話のなかにあって、私はただならぬ気を感じていました。
回し方としてはあまり正しくない。太鼓の胴を床にくっつけてはいけないらしい。
男たちが回す、坊さんが飛び降りる
太鼓回しは暗がりからいきなり始まりました。隣の人の顔すらみえないなか、気配だけを頼りに見物人たちがどよめきます。
ー 始まるぞ。
ー 始まるらしいで。
照明がすべて消され真っ暗闇になったお堂のどこかで、ドッスーンと地響きがしました。何があったのか見えません。後で知ったのですが、お堂廊下の天井にに吊るしてあった太鼓を下に落とした音だったそうです。間違えて落としたのではなくて、意図的に落とすのだといいます。まったくの闇に包まれたお堂の廊下に、太鼓を転がす音が鳴り響いていました。
暗闇はまだ続きます。そのなかを男たちが堂内に乗り込んできます。このときも、バラバラバラバラと、正体不明の音が聞こえていました。
男たちはお堂の真ん中に円陣を築き、ワッショ、ワッショの掛け声を上げ始めました。提灯のひとつひとつに火が入り、光と闇が交じり合います。やっとものが見える明るさになったものの、まだまだ暗い。何がどれだけ見えるかはその人の視力次第です。
ゴットン、ゴットン、ゴットンと、床と太鼓の胴がぶつかり合う音が鳴り響きます。
ひとりの男が、片手で太鼓のかんぬきを握り、もう片方の手で皮と胴の境い目を支えて太鼓を回します。胴や皮の面がべったり床にくっつくのではなくて、底の角だけで床に接しています。回し手は、自らの足を回転軸にして、遠心力を利用しながらも遠心力に耐え、勢いよく太鼓を振り回します。
円陣の壁として立つ男たちは、ササラと呼ばれる竹棒で床を突き、そして竹棒をゆすります。何本ものササラがザーッと音を立て、お堂を震わせます。
これは一種の狂騒です。少しでも近くで見ようとする見物人たちに後ろから押され、円陣を狭くすまいと踏ん張る男たちに前から押し戻され、ただ盲目のままにシャッターを切り続けました。いま光ったストロボが自分なのか他人なのかすら判断つきません。
回し手は、自分の持ち番が終わると、いったん太鼓を円陣奥に戻します。戻された太鼓を別の男たちも支え、その太鼓の上に比叡山の坊さんが乗ります。坊さんはここから床に飛び降りるのです。
よほどのバランス感覚がないと太鼓の上に留まっていることができないのでしょう、胴と皮の境い目あたりに足の裏を置き、直立姿勢を整え印を結ぶが早いか、次の瞬間には空中に飛び出しています。
床面が暗すぎて、高低差が把握できないのでしょう。このように安全を確認しないとかなり危険です。
これが比叡山の凄味か
故光永澄道大阿闍梨は、「比叡の旅(昭和59年発行)」のコラム中、「太鼓廻し」と言わず、「太鼓乗り」と言っています。
太鼓廻しを受け持つのは地主神社の氏子たちで、葛川の地元関係者、天台宗信者、太鼓廻し保存会メンバーなどで構成されています。坊さんは太鼓を回しませんから、なるほど、太鼓乗りです。
上記のコラムによれば、飛び降りるのは「新行」たちだそうです。比叡山の修行に詳しい人たちは、「さん」づけをして「新行さん」と呼びます。
新行さんというのは、百日回峰行に初めて挑んでいる坊さんを指します。
「行道に生きる(昭和58年発行)」という本で知ったことですが、延暦寺の住職を目指す場合、仏教系大学卒業者以外には三年籠山と百日回峰行が義務付けられているそうです。延暦寺住職の子弟が高校・大学を卒業しただけで親を継ぐケースが増えた結果、住職の質が低下し始め、その解決策としてこの規則が生まれたと説明してありました。
その百日回峰行ですが、「回峰」の漢字から連想できるように、歩いて歩いて歩き抜く修行です。
毎日深夜に自らの坊を出発、比叡山の三塔と呼ばれる東塔、西塔、横川を巡拝し、一度山を下りて坂本の日吉大社各所にも祈りを捧げ、再び山を登って元に戻ります。歩く距離は七里半。約30km。これを欠かすことなく百日間続けなくてはなりません。
悪天候、体調不良、肉親の不幸など理由の如何を問わず行を一日たりとも休むことはできないと、どの本にも書かれています。不動明王を模倣した白装束で身を包み、草鞋に素足で行者専用の小径を歩きます。白装束は、どこで死んでもいいための死に装束だという話もあります。
渡辺守順氏の「比叡山延暦寺(平成10年出版)」によると、平成5年、世界文化遺産候補の実地検分で、ユネスコ調査員が比叡山を訪れたそうです。自ら望んで荒行に入る行者がこの時代にもいる。その事実が調査員を大いに驚かせたといいます。
驚いてください、それが比叡山の凄味だと私は言いたい。
平安、室町、鎌倉、江戸といった時代に荒行が盛んだったという話ではない。もしそうなら、比叡山は文化遺産ではなくて、文化の遺物です。荒行が歴史・伝統であると同時に、現在の出来事でもある。そこが比叡山の特筆事項です。
その特筆事項を、その凄味を、目の当たりにしていました。いま太鼓から飛び降りているのは、何百年も前の坊さんではありません。同時代人です。現代の若者が実際に百日を歩き通した。その若者たちがここにいます。
しかし、鍛え上げた足腰をもってしても、これだけの暗さに感覚を狂わされながら姿形よく飛び降りるのは至難の業です。着地をしくじり、蛙のようにべちゃっと床に転んでしまう坊さんもいます。それを見た年配の見物人二人が言いたいことを言っていました。
ー 近頃の坊主はあかんなあ。ぽーんと飛びよらへん。落ちとるだけや。昔はもっと飛んどったやろ。
ー あかん、あかん、全然あかん。こわがっとるがな。あんなんではあかんわいな。
考えてみたら、数珠を手に合掌しつつ拝見すべき光景なのかもしれません。新行さんたちに仏のご加護あれ、怪我するなかれと願うべきでしょう。
坊さん、ついにキレる
坊さんたちは、総勢35人で葛川明王院に入りました。炎天下の道30km余を徒歩でやってきました。
7月16日から20日までの5日間、明王院に籠るためです。この籠行を「夏安居(げあんご)」といいます。坊さんたちは断食などの集団修行を行うそうで、さながら夏合宿といったところです。夏安居の経験回数が修行歴を表すステータスにもなっています。
新行さんたちの場合、この夏安居を避けて通ることはできません。3月末を皮切りに7月初旬までの百日間、1日七里半の行道巡礼を続けてきました。その百日回峰行は、この夏安居をきちんと修了してはじめて満行です。いっときたりとも気を緩めることができません。
いまこうして危険を省みず飛び降りているのも、これが修行だからです。修行でなければ、安全第一に改めることができます。それができないのです。しかし、見物客は、とくに他所から来た写真愛好家は、坊さんたちの真剣勝負を被写体扱いしているだけです。
ー くっついて写してはんのはよその人ばっかりやで。あんなにいっぱい写してどうしはるんやろ。
さっき、地元の若い女性がそう言っていました。
そして、ついに、一人の坊さんがキレました。その坊さんは、誰にも怪我がないようにと、見物客の近寄りすぎを制する役目を続けていました。再三再四にわたって「危ない、危ない」と腕と背で見物客を押し戻していたのですが、カメラを構えたひとりの若い男がまったく聞く耳を持たず、どれだけ注意されてもなんとか坊さんの前に入ろうとしていました。
ー 危ない言うとるやないか!
堪忍袋の緒が切れた坊さんは、そのカメラ小僧を突き飛ばしました。白装束の袖がまくれ上がり、武蔵棒弁慶並みにニョキニョキの腕が見えました。カメラ小僧はひとたまりもありません。吹っ飛び、床に転びました。
それを見咎めたのが、地元の長老です。
ー 仏に仕える身で暴力ふるうたらあかんやないか。
ー あいつが言うこときかんさかいや。見てて分からんのか。怪我したらどうする。おまえは黙っとれ。
ー おまえ? おまえは誰に向かっておまえ言うとるんじゃ。
ー おまえやないかい。おまえはどこのどいつじゃ。
ー わしは、自治連合会の会長やわい。おまえこそ誰や。
ー わしは常住じゃ!
常住というのは、葛川明王院の常住という意味です。
ここ明王院は修行地ですから、住職を持ちません。葬式寺としての機能はまったく備えていません。その明王院のいわば管理責任者として常住という役割が定められています。比叡山に身を置く誰かが受け持つそうです。常住さんと自治連合会長さんとが初対面どうしでも不思議ではありません。
地元の人が言っていました。
ー 常住というのは、常に住むと書きますけど、常に住んでませんわ。知ってます?葛川の全世帯が曹洞宗ですよ
ともあれ、名乗り合ってみれば、お互いにこの行事を滞りなく進めるべき立場同士ではないですか。もめているわけにはいきません。危険を承知でやらざるを得ない行事だけに、カメラ禁止のルールをこしらえてもいいと思いました。
太鼓廻しの元は相応和尚の神秘体験
太鼓廻しは、明王院を開いた相応和尚の神秘体験を再現したものです。
葛川明王院は、859年、相応和尚(そうおうかしょう)が開いたとされています。ちなみに、天台宗では、存命中は「和尚」を「おしょう」と読みますが、死去後は「かしょう」に変わります。相応和尚を「そうおうかしょう」と称するのもこのしきたりゆえです。
以下は伝承です。
相応和尚は、葛川を守る思古淵神(しこぶちしん)の導きでこの地にやってきました。
断食修行の最終日、滝に向かって一心に祈る相応和尚が見たのは、水中に揺れる不動明王の姿でした。
ついに見た!
感動の極致に達した相応和尚は思わず滝つぼに飛び込み、不動明王に抱きつきました。抱きついて気がつけば、不動明王はカツラの古木に変わっていました。
相応和尚はその霊木で不動明王像を彫り、明王院の場所に安置しました。
以上、伝承、終わりです。
これも地元の人から教わったのですが、太鼓廻しの太鼓はカツラを材料に作られています。それをぐるぐると回すのは、滝つぼの流れに巻かれるカツラの古木を表現するためです。太鼓と床がぶつかりあう音、何本ものササラを揺らして作り出す音、これが水や風の轟音を表現しています。
では、太鼓から飛び降りる坊さんたちは、滝つぼへ飛び込む相応和尚でしょうか。どうも違うなあ、不動明王を演じているなあと思えます。「南無大聖不動明王、これに乗らっしゃろう」、「南無大聖不動明王、飛ばっしゃろう」というかけ声があるからです。
太鼓廻しの元は真偽のはっきりしない話ですが、相応和尚自体は実在の人物です。滋賀県浅井郡出身の人で、三代目天台座主・慈覚大師円仁の弟子とされています。
この当時、円仁は、比叡山の密教をもっと充実させなくてはならないと考えていました。自らが唐に渡って密教の秘法を持ち帰ったくらいです。密教の宇宙観を修行という実践形式にどう置き換えてゆくか。この仕事を託されたのが、愛弟子である相応でした。
師の命を受けた相応が修行にすべてを賭けたであろうことは、状況からも推察できます。
相応の背後には、比叡山を早く密教の聖地にしたいという円仁の焦燥感もあったことでしょうし、それを反映する形でどんどん荒行が進んでいったとしても不思議ではありません。過酷で常人には真似のできない苦行をよほど続けたのか、相応は千日回峰行の祖と位置づけられています。
ところで、相応が生身の不動明王を見たという三の滝ですが、実在する落差20mほどの滝のことです。かなり豪快です。両岸が切り立ち、不動明王が現れるには格好のロケーションです。太鼓廻しの翌日、坊さんたちはこの滝に詣り、新行さんたちが本当の滝に飛び込みます。
明王谷の三の滝。比良は急峻で岩盤質だから滝が多い。比叡山は花崗岩質で崩れやすく渓谷が発達しない。相応は比良のほうが行場としてクオリティー高いぞと思ったのでは?
常喜家・常満家、そして立張提灯の行列
いまこうして、あの太鼓廻しの夜を思い返すと、夏安居の葛川は、いまもってなお比叡山の支配下に置かれていたように感じます。
事実、中世には、葛川の住民は比叡山に従属していたといわれます。山は聖域に指定され、自然を壊すような山仕事は許されませんでした。住民は明王院の維持・補修などで生計を立てていたそうです。
比叡山は、それほどまでに葛川を特別扱いしていました。その特殊な間柄が、夏安居の5日間にはどこかで目を覚ますのではないでしょうか。
太鼓廻しが行われるのは、葛川のなかの坊村という集落です。集落の入り口に2軒の屋敷があります。地主神社の参道を挟んで、北側に葛野常喜家が建ち、南側に葛野常満家が建っています。
この2軒の家柄は、相応和尚を葛川に導いた二人の童子、浄喜、浄満の末裔だといわれています。漢字が浄から常に変わっているものの、末裔として信徒代表を務め、明王院を守り続けています。
常喜、常満の名前は世襲されてきました。常喜さんのほうは最近になって名前を継いだため、今年が初めての太鼓廻し体験です。
その常喜さんがテレビのインタビューを受けていました。これはいい話が聞けそうだと、素知らぬ顔で聞き耳を立てていました。ところが、木という木からヒグラシの鳴き声が響き、それが常喜さんの声にかぶります。
インタビュー後半の答が、私には印象的でした。
自分は葛川に生まれ育って、本当にいいところだと思っている。これだけの歴史もある。だから葛川の役に立ちたい。その気持ちで常喜の名前を継いだ。
そのような趣旨だったと思います。やっぱり常喜さんは思古淵神のお使いではないでしょうか。
実は、太鼓廻しよりも先に、立張提灯を掲げての地主神社参拝が行われます。様子を見ていますと、葛川の各集落から集まった人たちが、まず常満家で平服から氏子の正装に着替え、着替えた後に常喜家に上がり込むしきたりになっている様子でした。
午後8時を過ぎる頃、2軒の家のあたりにはいろいろな人がやってきて、立張提灯の準備、お神酒の準備、祭祀用具の点検などに時間を費やしていました。常喜家では、何か役目を持ったような人たちが雑談しています。
葛野常喜家に各集落の代表者のような人たちが集まってきた。
立張提灯の参拝行列は午後9時頃に始まります。祭りが終わるような時間から始まるのです。
ーうちの息子は、高校に入ったら、下宿させました。そうやないと学校に通えませんもん。高校時代にここがどれだけ不便かよう分かった言うて、こんなとこへ戻ってきませんわ。堅田に家建てて、結婚して、そっちに住んでます。
地元の女性がそう話してくれました。その息子さん家族も、今夜は戻っています。どこの家庭も、この日ばかりは、普段は実家を離れている家族が帰ってきます。久しぶりに顔の揃った夕食を楽しむには、祭りが午後9時開始でちょうどいいのです。
比良山地と丹波高原に東西を阻まれ、花折断層の底を流れる安曇川に沿って八つの集落に分かれた葛川。屏風の向こう側に出ようとすれば右か左の端っこまで歩を進める必要があるのと同様、山の向こう側へ出るルートはふたつしかありません。
22度という道路脇の気温表示が、この地の山深さを物語っていました。
比良は起死回生の修行場
立張提灯を掲げての地主神社参拝。葛野常喜家を出発してゆっくり進む。
立張提灯の行列は、ゆっくり、ゆっくり進みます。
先頭に立つのは「伊勢音頭」の歌い手です。正調の伊勢音頭ではありません。葛川オリジナルと思える歌詞です。
行列がなかなか進まないのは、歌にひと区切りがつくまで歩を止めているからです。ひと区切りついたところで何歩か進みますが、また歌が始まって動きが止まります。普通に歩けば2分とかからない短い参道を20分ほどかけた末、やっと地主神社の鳥居までやってきました。
地主神社には、相応和尚を葛川に導いた、あの思古淵明神が祀られています。地元の人たちから「神仏習合」という言葉を何度も聞きました。それはそう、明王院を守るお宮さんが地主神社であり、たしかに神仏習合です。
ではどうして、思古淵神と不動明王の組み合わせなのか。なぜ、太鼓廻しの元となる神仏習合伝記が生まれたのか。今夜の行事をどれだけ眺め尽くしても、その回答に手が届くとは思えません。
近江好きの白洲正子さんが、「近江山河抄」のなかで、その答を探ろうとしていました。昭和49年発行の本です。まいりました。
「比良は黄泉比良坂(よもつひらさか)を意味したのではないだろうか」と、白州さんは自説を展開し始めます。黄泉比良坂は神話に現れる地名で、あの世とこの世の境とされる場所です。古代の比良は黄泉への入り口と思われていたのではないかと、白州さんは言うのです。
そして、相応和尚を葛川に導いた思古淵神(シコブチシン)は、黄泉の国に住むヨモツシコメの分身ではないかとも言っています。ヨモツシコメはイザナギノミコトを追いかけてきたあの醜女です。
サルメという女神に対してサルダヒコという男神があるように、シコメに対してシコブチという名の男神。これは十分に想定し得ると白州さんは自説を進めていきます。
つまり、相応和尚は黄泉の国の神であるシコブチシンに誘われて比良という冥界に入り、冥界に来たおかげで夢にまで見た不動明王に出会えた。しかし、抱きついてみるとそれはカツラの古木だった。相応和尚はそこで現実に引き戻された、いいかえれば一旦死んで生き返った。白州さんはそう分析します。
比良とあの世の結びつき方が、一度は死んでまた生き返る伝記に形を変えた。白州さんはそう言いたいのでしょう。
「生死の境を体験するのは、修験道の本質ともいえるが、その行場を比良山に選んだのは、太古からの伝統によるのであろう」と、白州さんは考えをまとめ始めます。「太古からの伝統」を、比良に異界を感じる感受性と言い換えてもいいでしょう。
しかし、さすが近江好きの白洲正子さん、比良のイメージをなんだか暗いだけのものにしては終わりません。
白州さんは、イザナギノミコトが黄泉津比良坂まで逃げ戻って死を逃れた神話を暗に踏まえます。黄泉津比良坂は、あの世への入り口でもあり、この世への出口でもあるのです。
「相応和尚の後継者たちが、比良へ籠るのは、平安時代以来、いや神代以来、そこに伝わってきた起死回生の思想による」と結んでいます。
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