富山へ向かう北陸自動車道、NHK第一放送の「すっぴん」から、「あまちゃん」のテーマソングが流れてきました。不覚にも涙がこぼれました。
前ぶれもなしに流すなんて、反則技です。そりゃ泣けてきますよ。
ずぶんもドラマのなかにいた
「あまちゃん」が大詰めを迎えた頃から、世間では「あまロス症候群」なんてことがいわれ始めました。放送が終了したら、熱心だったファンたちが大きな喪失感にさいなまれるだろう。そんな予測が広がっていました。
アホなこといわんといてくれ、そんなもん考えすぎや。
「あまロス症候群」なんて、そんなひ弱な神経でどうする。
ドラマの登場人物たちは、様々な困難にもめげず、図太く、夢を持って生きていたではないか。喪失感に囚われてしまうような弱さでは、いったいあのドラマから何を学んだというのか。自分は意地でもそんなことにはならないぞ。
そう思ってたんですねえ。
それだけに、テーマソングを耳にしただけでウルウルしてしまう自分に驚きました。いまなら、カンカン踊りの曲(あの曲は「天国と地獄」というんでしたっけ)を聞いても、間違えて泣いてしまいそうです。
今朝は、放送が終わって初めての月曜日でした。
なにやら心がスースーとするのは、なにも秋らしくなった気温のせいではなかったようです。ラジオから流れるテーマソングを耳にしたとき、かけがえのないものを失くしてしまったような、そんな気分が一気に押し寄せてきました。
毎朝、ときには日に4回、あのドラマを見ていたのは、なによりもおもしろかったからです。けれども、そればかりではありませんでした。いつのまにやら、自分もドラマの人間模様のなかの一人みたいな気持ちになっていました。何が起きたかを、ちゃんと知っておかないといけない。自分もなくてはならない人物になりたいと、そんな思いでした。
ここまでテレビと一体化するなんて、「チロリン村とクルミの木」や、「ひょっこりひょうたん島」以来のことです。
あまちゃんパート2は自分で作る
ドラマのあの面々は、きっと本当にどこかにいると、私は思っています。北三陸市という町も、きっとどこかにあるはずだと思っています。
けれども、どれだけ長く生きても、どれだけ列車を乗り継いでも、会うことのできる人や町ではありません。
それでも、なおかつ、実在を信じたいのは、自分もあのようでありたいと願う気持ちが強いからでしょう。
山のあなたの空遠く
幸い住むと人の言う
カール・ブッセの詩ですよね。これを思い出しました。
詩全体が言わんとしているのは、山の彼方に幸せを探しに行くのではなくて、いまこのとき・この場所が幸せなのだと気づきなさい、といったことです。ドラマのなかにも、「場所じゃない、人なんだ」という名言がありました。
「ああ、そうか」と思いました。ドラマに登場した町や人がそこまで好きな自分は、ただ憧れているのではなくて、これからはそういう風に生きればいいのです。実在して欲しくても実在しないものならば、自らが生み出せばいいのだと思えてきました。
つまり、「あまちゃんパート2」は自分のなかで始まる。大袈裟だと思いつつ言うことではありますが、そういうことにならないでしょうか。
過疎地の心意気
経産省の後藤久典という官僚が、自らのブログに、被災地の復興は不要だといった発言をしていました。「もともと、ほぼ滅んでいた東北のリアス式の過疎地」と彼は表現し、そこのじじぃとばばぁのために日本の大切な金を使う必要はないと書いていました。
このニュースが出てきたのは9月25日。「あまちゃん」の最終週です。
後藤久典の考え方がどれだけ間違っているのか、最終回が教えてくれました。人それぞれ夢をもち、夢を追いかける。その場所が、東京であっても、過疎地であっても、生き方の尊さに上下はありません。
しかし、震災によって、多くの人が夢を追いかけるホームグラウンドを失いました。後藤久典は、その現実をどう思っているのでしょうか。おまえらは夢を追いかけなくていいというのでしょうか。
あかん。めちゃくちゃ眠たい。ここから先は、明日にします。
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