食材偽装で思い出したのが、この小さな人参です。
2011年7月、京丹後市弥栄町の縄屋でのことでした。
この人参、めちゃおいしいと、私は言いました。吉岡さんのお母さんが、店の畑から間引きした人参だと答えました。
おいしかったのです。いまもなお際立ち続けるおいしさだったのです。
といっても、料理人の腕がよければどんな食材もおいしくなる、偽装を必要とした料理人は腕が悪いのだと、そのような話をしたいのではありません。
あのとき、「京野菜にはこういう食べ方もあるんですよ」という返答だったらどうだったのか。
私のなかでここまでおいしさが際立ち続けたかどうか分かりません。
「店の畑から間引きしてきた人参」と聞いたからこそ、より鮮烈だったのだと、私には思えます。
ことほどさように、おいしさと言葉は重なり合っています。
「店の畑から間引きしてきた」と、こともなげに告げられ、その人参がこんなにもおいしいことに驚き、食材の出自にこだわらない吉岡さんの潔さに感じ入り、おいしいもののおいしさをきちんと表現できる手腕に感服しました。そして、わざわざ仕入れた食材ではないだけに、あたかも自分だけのオリジナル体験の如くに感じられたのです。
つまり、小さな人参ひとつに、私はこれだけの解釈を与えて値打ちを感じたことになります。「店の畑から間引きしてきた」というのは、ただ耳から入ってきただけの言葉に見えて、実はえらく大きな意味をもつ表現でした。おいしさと言葉が重なり合った瞬間です。
食材偽装が成り立ったというのも、おいしさと言葉が常に重なり合っているからでしょう。とくに、あらたまった外食では、言葉の魔力が増幅されます。
そんなことを考えていたら、今日の朝日新聞「オピニオン」欄にブルボン小林さん(コラムニスト)が、食材偽装関連の長文を寄せていました。(http://digital.asahi.com/articles/TKY201311120525.html?iref=comkiji_redirect)
「言葉も食べている」というタイトルだけで論旨を直感的に推し測っていただけるかと思います。
文章冒頭、事前に聞かされた言葉で感じ方が真逆に変わってしまう体験例ふたつを、小林さんは紹介しています。
気の抜けたコーラだと言われて飲んだのが麦茶だったとき、普段はまずいとも感じたことのない麦茶を「うぇっ」と思った。
味がおかしくて賞味期間切れかと思っていたオレンジジュースが実は温州みかんジュースだと分かった。その後は十分においしさを感じた。
このふたつの逸話に基づき、「とにかく我々は物を食すとき、言語も食べている」と、小林さんは論旨を展開していきます。
文章後半では、食材偽装そのものよりも、言語の魔力がクローズアップされてきます。
言語はときとして味覚のような原初的な感覚さえも騙してしまうということで、だから今回のような食材偽装も生じるし、逆に、メニュー表示から言語表現の豊かさを排除すれば欲や期待を働かせる楽しみも失われると、小林さんは言います。
言語が万物に重なっていることをきちんと意識する。言葉に惑わされないためには、ある言葉がどんな期待や欲を喚起させるのかを自覚しておく。これが大切だと小林さんは結んでいます。
哲学者の小林秀雄には、「美しい花がある。花の美しさというものはない」という有名な言葉があるそうです。この言葉は、「花が美しいのではない。美しい花があるのだ」という風に解釈されるのが一般的なようです。
おいしさも、料理に貼り付いた言葉次第という点では、この深遠な名言に通ずるところがあります。食材偽装は、まさにこれでした。花の美しさというものはなくて、美しい花があるだけだから、本物を使ってあっても偽物を使ってあっても、おいしい料理はおいしかったのでしょう。
なんか、杏里の歌にありましたねえ。あなた私の幻を愛したの。
でも、ここまで読んでもらっていまさら言うのもなんですが、言葉の魔力という切り口は、食材偽装には当てはめやすくても、おいしさすべてを語るには大いに力不足だと思います。
縄屋のあの間引き人参は、やっぱり、まず素材そのものがおいしかったのです。縄屋に限ったことではなくて、なんでもないものがびっくりするほどおいしいことを、京丹後、宮津、舞鶴、福知山でどれほど教わったことか。
ーーー 美しい花がある。花の美しさというものはない。
いやいや、花の美しさはあると、私は思います。その美しさが殺されることなくさらに生かされたときに、正真正銘の美しい花として愛されるのではないでしょうか。
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