2013-08-01

比叡山 無動寺(滋賀県大津市) 司馬遼太郎さんのたった一行でやってきた

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 今回、葛川太鼓廻しをブログにするために、本をあれこれ読みました。
 司馬遼太郎さんが、「街道をゆく10 叡山の諸道」で、この無動寺のことを書いていました。自分も行きたくなりました。



20130720-_DSC9894無動寺明王堂。千日回峰行の「堂入り」の場として有名。このお堂に籠ったまま、断食・断水・不眠・不臥を9日間にわたって守るという荒行中の荒行。5日目くらいからは、行者に腐臭が漂い、瞳孔は散大したままになるという。半死半生とはまさにそのことか。


 無動寺を開いたのは、相応和尚だとされています。
 葛川の太鼓廻しでも出てきたように、比叡山を代表する荒行である千日回峰の原型を作った人です。

 その相応が、葛川に籠って行を重ねているときに生身の不動明王を感得した。それが、あの太鼓廻しの起こりとなっています。

 不動明王は、お不動さんのことやろ?
 不動明王とお不動さんは違うの?

 「月の法善寺横丁」を思い出しながら、そんなことを思っていました。
 「月の法善寺横丁」は、私が5歳のとき、1957年の歌です。1番と2番の間にセリフが挟まる歌ですが、そのセリフのなかに、

--- はよう立派なお板場さんになりいやいうて、長いこと水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなあ

 というフレーズがありました。

 大阪のある店で、そこの末っ娘と板前さんとが恋仲になりました。店のだんさんは、二人の結婚を許してくれました。ただし、立派な板前になることが条件です。そこで、板前さんは、包丁一本さらしに巻いて旅に出ます。その一日も早い成就を末っ娘(こいさん)がお不動さんに願掛けしました。
 おおきに、こいさん、見てておくんなはれと、そういう歌なのですが、こっちは、同じお不動さんでも、修行じゃなくて修業です。

 司馬さんは、「無動というのは、不動というのと同義である」と書いています。無道寺の明王堂には不動明王が居座り、行者さんたちを守っています。

 いっぽう、山を下りた不動明王は、「お不動さん」と親しまれ、町中のあちこちで、私たちの身近な願い事を聞いてくれるようになりました。
 あんなにおそろしい顔つきの仏を、なぜ日本人が尊ぶのか、その理由はよく分からないと司馬さんは言っています。

 まあ、各地のゆるキャラだって、よく見ればキモカワですから、お不動さんの強面も、大衆心理にはキャッチーだったのかもしれません。

 よく分からないと言いながらも司馬さんは、お不動さん信仰の元をたどるために、平安朝の修験者たちに注目しています。彼らは、本物の僧侶の代役として、人々の求めに応じて密教色の濃い加持祈祷を施していました。その修験者たちが不動明王を拝していました。
 山を下りて活動する修験者は、いまでいえば開業医並みの数だったことから、民間と修験道の付き合いがお不動さん信仰の推進役を果たしたのだろうと、司馬さんは推論しています。

 そして、「叡山の無動寺谷は、その不動信仰の遠い時代のおろし元だったに違いない」と結んでいます。
 この一行が、私を無動寺に連れて来ました。


20130720-_DSC9918回峰行で使い古したわらじがぶら下げられていた。ここは大乗院。ここで親鸞も修行したと言い伝えられている。法然、親鸞、日蓮、栄西、道元・・・比叡山はさまざまな教派の母体となった。



 坂道嫌いの司馬さんが渋々ながら下りた坂を、私も行きます。
 坂本から上がってくるケーブルカーの終点延暦寺駅から始まる無道寺参道。標高差100mの下り道を、時間にして20分ほど歩きます。

 司馬さん一行がこの坂を下りたのは、1979年のことです。
 当時、アサヒグラフのデスクだった福田徳郎さんは、少年~青年時代をこの無動寺谷の小僧として過ごした経歴の持ち主でした。福田さんは、朝日新聞のカメラマンになってからも、山門あちこちと縁故を保ち続けていました。福田さんの尽力が実り、司馬さんは法華大会(ほっけだいえ)をその目で見る機会を得ました。普通は俗人排除の重要行事です。

 「叡山の小僧」という身分の実態を読者に伝えるために、司馬さんはなにかと表現をひねくりまわしています。司馬さんの博識と筆力をもってしても小僧とは何たるかを類型化できないほど、小僧の実像は多岐をきわめるのでしょう。

 これがいわゆる小僧さんかとおぼしき若者が、弁財天の参道を竹ぼうきで掃いていました。普通の家庭ならば「いつもきれいになさってますねえ」と褒めてもらえるほど掃除の行き届いた地面ですが、それでもなお竹ぼうきを動かし続けています。

 朝一番のケーブルカーは、8時過ぎに、延暦寺駅に到着します。観光客と共に下界から運ばれてきた日用生活品を受け取りに行くのも、小僧さんの役割です。福田徳郎さんの時代は徒歩で荷物を運んだのかもしれませんが、この小僧さんは上手にトラクターを運転しながらあの坂道を往復していました。
 トラクターを使ってかまわないんだと、なんだか、ほっとしました。


20130720-_DSC9889弁財天参道。小僧さんとおぼしき若者が念入りに掃き掃除をしていた。


20130720-_DSC9946ケーブルカー延暦寺駅からの長い坂道、さっきの小僧さんがトラクターで物資を運ぶ。葛川夏安居から行者たちが無動寺谷に帰ってくる日だった。この小僧さんから聞いたわけではないが、今年の新行さんは5人で、いつになく多く、めでたいことだという。


20130720-_DSC9873弁財天。合掌するのか、二拍手するのか、分からなかった。鈴はたしかにあるが、お堂のなかに見えるのは仏像だと思えた。


 比叡山の荒行のなかでもっとも広く知られているのは、千日回峰行でしょう。文字通り、回峰(山歩き)を千日間という厳しい行です。

 いま千日回峰行に挑んでいる行者さんが一人います。四百日目を終わって、五百日目に入っているはずです。

 本ばっかり読んでてもあかん、ナマの話もないとあかん。そう思って、京都市内修学院にある赤山禅院(せきざんぜんいん)へ足を運びました。参拝に訪れていた熱心な信者の女性とたまたま出会ったのが幸運でした。その方から、いま一人の行者さんが千日回峰行を進めているのだと教わりました。

 戦後に千日回峰行大行満を成し遂げた大阿闍梨は13人だそうです。13人目は光永園道師で、これが2009年のことでした。いま五百日目を歩いているその行者さんが大行満を成し遂げるとすれば、3年後の2016年です。

 その行者さんが来年に七百日目を歩き切れば、いよいよ生死を知らぬ堂入り、9日間に及ぶ絶食・絶水・不眠・不臥が待っています。堂入りを無事に済ませ、残る三百日を乗り切れば、7年ぶりで、「北嶺大先達大行満大阿闍梨」の誕生です。なにとぞ仏のご加護をと祈るばかりです。

 千日回峰行の山歩きや堂入りはYoutubeで見られますから、関心のある方はご覧になってください。(URL=酒井雄哉二千日回峰(道遙かなり)_001.mp4 - YouTube 酒井雄哉お堂入り9日間断食、断水、不眠、不臥の難行 - YouTube


20130720-_DSC9893明王堂の前から見晴るかす琵琶湖と大津市街。湖に近い場所ほど背の高い建物が建つという、なんとあさはかな大津市政。きれいな琵琶湖の景色が見たかったら、高層階なんかに頼らないでここまで来いと、不動明王の声がした。


20130720-_DSC9922法曼院。崖を使って石垣の上に建っている。柴犬がずっとこちらを見下ろしていた。司馬遼太郎さんの文章に、行道を毎日歩く犬の話が出てきたのを思い出した。司馬さん一行は、ここで光永澄道大阿闍梨に出会った。
ーーなぜ行を発願されたのかという意味のことを問うた。これに対し、澄道師は単に、「伝統ですから」といわれた。それだけであったーー



 7月26日のニュースは、第二次世界大戦末期、比叡山山頂近くに、「桜花」発射台が密かに建設されていたことを報じています。秘密発射基地の存在自体は既に知られていましたが、その全容を詳細に記録した写真やスケッチが見つかったということで、ニュースになりました。
http://photo.sankei.jp.msn.com/essay/data/2013/07/26ouka/

 「桜花」といえば特攻専用機です。大阪湾に敵艦が入ってきたら体当たりを加える作戦だったそうです。そこに至るまでに敗戦がやってきましたから、比叡山頂から一機も飛ぶことはありませんでした。

 いまや世界文化遺産にも登録された比叡山。日本はそのてっぺんから特攻機を発射しようとしていた。戦争とはいかにも狂気です。
 




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 帰り道で、ロテル・ド・比叡に立ち寄りました。コーヒーが飲みたくなったからです。まるで秋のように空高くまで晴れ上がった日でした。下界の暑さがどれほどかを後で知りましたが、標高600mに近いここには爽やかな風が吹き抜けていました。

 このホテルには、カフェ・ド・レレルがあって、琵琶湖を遠望しながら落ち着けます。この日は、私一人がカフェを貸し切ったようなもので、他には誰も客がいませんでした。 そりゃそうでしょう。比叡山ドライブウェイの7時開門と同時にゲートを入ったのですから。
 煙草が吸えるということでテラス席を選びました。

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 18日の太鼓祭り以来、ここしばらく禁欲的なものばかりを見てきたわけですから、一度はオシャレな気分にならないと、このまま自分が変になると思いました。

 それに、正直なところ、密教を気味悪く感じました。

 密教に対応するのは顕教で、こちらは言葉を通して語られる仏教です。お釈迦様を祖としています。お釈迦様は実在した人間ですから、その教えは五感によって理解できる中味です。

 ところが、密教は、大日如来を祖とします。大日如来は人間ではなくて、宇宙の原理です。ですから、言葉で伝えられるものでも、五感で理解できるものでもありません。
 言い方は変ですが、人であって人でないものになるというのか、宇宙からの信号を受信できる者、宇宙の原理を直感できる者になるために、あのような荒行があります。密教はおのずと呪術めいてきます。

 これ以上はつきあいたくないという気持ち、もっと知りたいと思う気持ちの両方ですが、もっと知りたいと思っている自分自身が気色悪いのです。

 無動寺谷からさほど遠くない場所にロテル・ド・比叡があってくれて助かりました。
 

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