滋賀県蒲生郡日野町。
あれ?聞いたことあるぞ?
そうです。ソチ冬季五輪大会モーグル女子代表、伊藤みき選手のふるさとです。
みきさんの故郷は商人町
日野商人街道をはずれた大石町あたり。広い敷地を紅殻(べんがら)塀がとり囲んでいます。このお屋敷は、商家ではなくて、武家屋敷だったかもしれません。
日野町の古い町並みが冬の陽を真正面から受けて、何もかもがコントラスト強の映像のなかにありました。紅殻(べんがら)と呼ばれる塗りを施した塀には、「頑張れ!伊藤みき」のポスターが何枚も貼ってあります。
日野町は、近江八幡や五個荘町と並び、近江商人輩出の地として知られています。漆器や漢方薬を主体とする小間物の行商から始まった日野商人ですが、江戸時代には、幕府から権益を保証された優位性も手伝って、全国各地に大店を展開するに至ります。
ときを経て、日野町が輩出した最新の人材は、女子モーグルの冬季オリンピック代表選手でした。屋敷を取り囲む紅殻の塀と、そこに貼られた「頑張れ!伊藤みき」のポスターが、日野町のいまとむかしを一発で語ってくれます。
そのパン屋はどこにある?
日野町は、古い商家の町並みを「日野商人街道」と名付け、観光資源に充てています。桟敷窓(開放中)。日野町の民家を象徴する家屋構造。日野大祭の山車行列を家の中から観覧するための窓。普段は格子戸で塞がれています。お祭りの日だけ格子戸をばたんと倒して外が見える状態にします。
桟敷窓(さじきまど)を特徴とする民家が並ぶ新町あたり。
ここも日野商人の商家だったと思われる屋敷の玄関先に、「大地堂」をアピールする看板が、これでもか、これでもかと立っていました。
麦から育てるパン屋さん。看板がそう言ってます。
なのに、あたりを見回しましても、パン屋はどこにもありません。
ここから入るのかと、開きもしない板戸を引いてみたり、桟敷窓といわれる格子窓の細い隙間から覗いてみたり。人に見られたら怪しまれること間違いなしです。
でも、心配ありません。そこまでの人通りがありません。
でも、心配してください。場所を尋ねるだけの人通りがありません。
路地を入っていった妻お龍が見つけました。
おとうさん、ここよ、ここよ。
路地に面した黒い板塀に沿って視線を奥へと運べば、店の入り口と思えば思えないこともない程度の飾り付けが施されていました。
やっと見つけた入り口ですが、見つけたら見つけたで、幅の広い白木の引き戸がぴたりと閉じられ、なおも客と店を隔てています。大雑把にして大袈裟にして大真面目。それだけで、好奇心が止まらなくなりました。
つきあたりに神社のある路地を入っていった妻お龍。店の入り口を見つけました。
好奇心をそそる入り口。立っているのは「ディン・ケルンくん」といって、いわば店のゆるキャラ。この白木の引き戸、一見さんおことわりのお茶屋に入る気分でした。
時代をワープしました。店舗は蔵の中でした。長持(ながもち)の上にパンが並んでいます。近所の家が持て余していた長持をもらったそうです。
パン屋へ入れば手のほうが勝手に伸びるお龍ですが、このときは、小さくても値段が高いパンにひるみがち。
商品名から味が連想しにくいだけに、試食用サンプルが用意されています。
日野の旧商家ならではの店舗
店は蔵の中にありました。
このパン屋「大地堂」は、中田志穂さんが実家の蔵を間借りしてやっています。看板が表玄関にあって入り口が路地にあるくらいですから、中田志穂さんの実家は、それだけ大きなお屋敷です。
このあたりの商家は、屋敷の内側に、大きな庭を持っています。京町屋の坪庭と似たようなことですが、広さは坪庭の比ではありません。日本庭園プラスもの干し場として使ってもまだ空間があり余っています。店舗に改修された蔵は、その内庭の最奥に建っていました。
蔵のかたわらには、いわゆる離れといった構えの住居があります。そこをパン工房向けに手直しし、石窯を設置しました。元は、姉の中田美穂さんが陶芸用の窯を置いていた場所ですが、パン屋を始めた志穂さんが追い出してしまいました。
なるほど、実家が旧商家では、来店者に不親切な入り口もやむをえずといったところです。防犯に重きを置いた商人向け家屋ですから、路地側から出入りしやすいようでは役に立ちません。
でも、それでいいのではないでしょうか。観光客の立場に回れば、大地堂の入りにくさも、商家を知るひとつの手段です。
大地堂ストーリー
志穂さんは、2006年12月に、この店を始めました。うち1年間は出産と育児のために休業していましたから、6年ちょっと商売をやってきたことになります。
志穂さん本人や姉の美穂さんの話、そこにネット上の紹介記事を重ね合わせれば、商売を始める前の志穂さんは、こんな経歴です。
☆フレンチレストランに勤務しパン部門を担当したのがきっかけ
☆パンを焼くうちにいろいろなパンに出会いたいと希求する
☆一念発起、ヨーロッパで各国のパンを食べ歩き、ドイツパンに惚れ込む
☆帰国後、京都のパン屋勤務の傍ら、「石窯会研究所」の竹下晃朗に師事
☆再びドイツに渡って本場のノウハウを学ぶ
志穂さんの場合、パン屋を持つ夢がパン生地なら、自家製小麦で焼く夢は酵母だったと思います。酵母が生地を大きく膨らませるように、「麦から育てるパン屋さん」の夢が志穂さんを突き動かしました。
その夢が実現するまでの経緯を要約すると、以下のようになります。
☆幸いにも、姉の美穂さんが、専業農家の廣瀬敬一郎さんと結婚した。志穂さんは、ヨーロッパ渡航中から目をつけていたディンケル麦のすばらしさを敬一郎さんに話し、お義兄さんの畑で栽培して欲しいと頼み込んだ
☆志穂さんの願いを聞き入れたお義兄さんは、ドイツ修業の間にディンケル麦の種を手に入れろと告げた
☆ディンケル麦の力強いおいしさや栄養価の高さは、古代穀物ゆえの特質だ。しかし、ヨーロッパ原産の外来種であるため、日本での栽培許可をとるのがひと苦労だった
☆しかも、梅雨がなくて空気の乾いたヨーロッパの麦を、気候が大きく異なる日本で育てるための試行錯誤には、ひとかたならぬものがあった
☆義兄さんは、外来種移入の許可をなんとか取り付けた。ディンケル麦の収穫までには2年を要したが、2007年、自家製ディンケルで焼き始めるに至った
(参考:大地堂(滋賀県日野町) | パンラボ 麦から育てるパン屋さん 大地堂 | シュトーレン・ドイツパンの販売 麦から育てるパン屋「大地堂」 店主 中田志穂さん - 滋賀ガイド「素敵な人」)
ここまで書いてきて、志穂さんは運をもった人だなという気がしてきました。姉の美穂さんが、「私がたまたま専業農家に嫁いだもので」と言ってましたが、そういう偶然に恵まれるんですからね。しかも、お義兄さんの廣瀬敬一郎さんは、進取の精神にあふれた人でした。頭の固い農業経営者だったら、外来種の麦をやってみようとは言ってくれなかったことでしょう。
志穂さんが進んできた道は何か物語のようです。ストーリー性のある人生に憧れる顧客心理も、大地堂成功の一因かもしれません。
スロー・ライフとか田舎暮らしとかは心地いい言葉ですが、じゃあ何をどう実践すればいいのかとなると、得体の知れぬ生き方です。バンダナを頭に巻いて家庭菜園をやればいいってもんでもありません。
パンは土から生まれるといわんばかりの志穂さんに出会って、自分では描けなかったものを目の当たりにした気持ちになりました。志穂さんのパンを買って食べる行為を通じて、別の世界に小さな一歩を踏み入れた気分にもなれました。たしかな職能の裏づけなしにスロー・ライフと生計の両立はあり得ないことも教わりました。
私が製薬企業に勤めていると自己紹介したら、薬剤師バブルとかいって薬剤師さんの収入はいいんでしょうという話になりました。
私自身は薬剤師ではありませんが、調剤薬局の管理薬剤師の求人広告を見ていたら、年収500万円くらいです。
それを聞いた志穂さんは、「もっと勉強して、私もそっちがよかったなあ」と言ってました。けれども、私には、志穂さんのほうが羨ましく見えます。パン作りといっても、志穂さんの場合は自然相手の側面も多く、苦労は絶えないでしょう。でも、本当に好きなこと、やりたいことをやり通してます。
いや、美穂さん、人はパンのみにて生くるにあらずですから。
この格言を、まさか本物のパン屋さん相手に言うとは思ってもみませんでした。
店内の棚には、原料の麦3種類が展示してありました。志穂さんは、ディンケル麦がピザ生地にも向いているのではないかと考えています。
大地堂のホームページ。インターネット通販もやっています。カード決済可です。
通好みのパンだと思った
蕎麦好きは、蕎麦の微妙な甘さと香りを味わうために、まずは麺だけを口に含むといいます。次に、つまんだ麺の下3分の1ほどをつゆにつけて食べるそうです。浸しすぎると、つゆの濃さに蕎麦が負けてしまうからです。薬味をつゆに入れるのは、そのまた後になります。
蕎麦がきを注文するのも通らしさを感じさせるそうです。ごまかしのきかないシンプルなものでその店の味を堪能する姿勢が見えるからだといいます。
大地堂のパンを食べてみて、蕎麦に通じるものがあるなと思いました。大地堂のパンのおいしさは、すっぴん美人みたいなもので、麦そのものの味に拠るところが大きく、麦を穀物として味わう意図で焼かれたパンだと思います。
うちのパンは和食に合いますよと志穂さんが言うのも、穀物本来の味や香りを生かしてあるからでしょう。麦にまでこだわる根っからのパン好きの方がリピーターになって下さいますというのも、志穂さんがシンプルなおいしさを追い求めてきた結果でしょう。
これは私の憶測ですが、志穂さんがパン作りを学んだドイツには、無雑作にパンを食べながらも無意識にテロワールまで味わう食文化があるのではないでしょうか。日本とはパン作りの哲学が大いに異なる気がします。でなければ、志穂さんのパン作りがこうはならなかったと思うのです。
大地堂のパンを、私は、いろいろなものと組み合わせて試してみました。ドライフルーツが混ぜてあって甘さのあるミッシュシュタンゲは、安いチーズとの取り合わせであってもおいしさが増しました。いっぽう、薄い塩味だけの発芽玄米ブロートは、パン単独のときがいちばんおいしく感じられました。
四角いほうが発芽玄米ブロート。丸みのあるほうがミッシュシュタンゲ。
何と一緒に食べたらおいしいかを知ろうとしました。発芽玄米ブロート(ディンケル小麦に発芽玄米をブレンドしたパン)は、単独だと塩味が感じられておいしいのに、他の食材と組み合わせたら味が死んでしまいました。
世の中を見渡しますと、蕎麦をたっぷりつゆにつけて食べる人のほうが多数派です。それを思うと、大地堂のパンは、決して万人向けではありません。
パンをパンとして楽しむというのか、麦を麦として楽しむというのか、そういうパンも食べてみたい方がおられたら、私は自信をもって大地堂をオススメします。山崎パンは言うに及ばず、長い横文字のオシャレなパン屋とも明らかに方向性が異なります。
子供も好きになりそうなホットケーキミックス
そんななか、ディンケル小麦全粒粉のホットケーキミックスは、子供も喜びそうな味です。賞味期限が短い(1月27日に買ったら14.03.25の期限)ので、生ものと心得たほうがよさそうです。値段は、1袋170g入りで230円でした。
人気商品らしくて、商品棚には在庫がありませんでした。志穂さんがその場で新たに詰めてくれました。表記は170g入りですが180g入ってました。尾賀商店(近江八幡市)他、よその店でも売っています。
かつては、焼きミョウバンの成分名でアルミを多く含むベーキングパウダーが流通の中心でした。そうしたベーキングパウダーが混ぜられたホットケーキミックスの場合、とくに子供において、アルミの過剰摂取が危惧されました。それ以降、アルミフリーのベーキングパウダーのほうが当たり前になってきたわけですが、もちろん、大地堂のホットケーキミックスもアルミなしのベーキングパウダーを使っています。
そこに、甜菜糖(てんさいとう)を混ぜてあります。サトウダイコンから作る甜菜糖は、ビフィズス菌を増やすオリゴ糖の含有量が多いことや、血糖値上昇が緩やかなこと、身体を温める作用があることなど、白砂糖に比べて利点の多い甘味料です。
大地堂の粉で焼いたホットケーキは、香ばしさとちょうどいい甘さが合体した味で、まさに混じりっ気なし。ストレートでシンプルなおいしさでした。メイプルシロップやバターは要らないと思いました。何も知らない子供なら、またあのお煎餅が食べたいと言うかもしれません。それほど香ばしさが際立っています。
ディンケル小麦全粒粉ホットケーキミックスで焼きました。色濃く焼き上がるのがわかると思います。
姉の美穂さんは陶芸家
志穂さんの姉、中田美穂さんの作品が大地堂に展示してあります。器の表面が白っぽいのは、粉引という技法を使っているからです。粉引きを本格的に学びたかった美穂さんは、何度も韓国に足を運びました。いったん望んだことは必ずやり遂げる姉妹です。
日野町の大地堂に立ち寄り中田志穂さんを初めて知った翌日、今度は近江八幡の尾賀商店で、姉の中田美穂さんと初めて出会いました。世間が狭いのか、滋賀県が狭すぎるのか、はたまた、尾賀商店の顔が広いのか。
姉の美穂さんは、陶芸家です。大地堂の軒先に立つゆるキャラ「ディン・ケルンくん」をこしらえた人です。
この日は尾賀商店で「廣川純・中田美穂 土鍋とあったか器展」が開催され、作者本人の二人が会場に貼り着いていました。(詳しくは翠日記:新たな一週間をご覧下さい)
土鍋のよさが見直されているといいます。たとえば、土鍋で蒸し野菜をこしらえると、とても甘い仕上がりになるそうです。土鍋はゆっくりした熱伝導で野菜を包み込み、甘みをじっくり引き出すそうです。
とはいえ、無水料理ができない点が、元来、土鍋の弱点とされてきました。そのため、鍋など、もっぱら煮物を受け持ってきました。その弱点を改良したのが、今回の二人の土鍋です。料理のバリエーションが、尾賀商店のブログで紹介されています。翠日記:土鍋の会 一回目
ところで、美穂さんは、土鍋であれ食器であれ、粉引の技法を好んで用います。
粉引は、白い化粧土を器の表面にまぶし、その上に釉薬を掛けて仕上げる技法です。李王朝時代の朝鮮から日本に伝わったとされている粉引を本格的に学ぶために、美穂さんは何度も韓国に足を運びました。いまでは日韓の陶芸仲間でグループ展を開催するほど交流が深まっています。
美穂さんの作品は、粗めの化粧土を釉薬で流した雰囲気がどこか朝鮮半島臭いだけではなくて、たとえば、土鍋の取っ手の形状だけでも、石造技術をもたらした渡来人の感性に通ずるものがあります。
パンの志穂さん、陶芸の美穂さん、姉妹揃って国内の技術習得だけでは満足できなかった理由が、作品からそこはかとなく伝わってきました。
まとめ
日野町出身、ソチ冬季オリンピック女子モーグル代表の伊藤みき選手。姉のあずささん、妹のさつきさんを含めて、有名なモーグル三姉妹だそうです。ところが、どっこい。日野町には、中田美穂・志穂の姉妹もいます。
伊藤みき選手は、右足前十字靭帯損傷にもめげず、金メダルへの決意をはっきり口にしました。「あの言葉、稀勢の里に聞かせてやりたかったわ」とお龍が言います。
伊藤みきさんといい、美穂・志穂姉妹といい、綿向山から吹き下ろす冬の冷たい風が、芯の強い日野女を育てるのでしょうか。少なくとも、名物日野菜漬は、この町の厳しい寒さなしにはおいしくなりません。
お姉さんは土をこねて陶器を焼くし、妹さんは小麦粉をこねてパンを焼くし、勉強したいとなったら二人とも外国まで行くし、やっぱりよう似てるなあ。
そう言いながら私は、姉妹共通の熱波を感じていました。
美穂さんを通じて志穂さんの歩みをより深く知ったお龍は、あれ以来、大地堂のパンが高すぎると言わなくなりました。
土をこねて直に火を加えれば、陶器になります。土に育てさせた麦をこねて火を加えれば、パンになります。陶器とパンは、大地から生まれる姉と妹みたいなもんです。
あ、そうか。なるほど、大地堂か。土の力か。
うまくまとまりました。
ディンケル麦を育てる専業農家の義兄廣瀬敬一郎さんも含めて、土に生きる三兄弟。大地三兄弟は、明日も元気です。
日野町のシンボル綿向山を望む。日野の町中からでも、雪をかぶった綿向山が見え隠れします。近頃は頂上付近の樹氷が人気で、冬季も登山者が絶えません。
こんにちは
返信削除兵庫県加東市高岡・自家焙煎珈琲店エーデルワイスです。
意欲的な興味深いお話し、楽しかったです。
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ご活躍を祈願いたします。 横山義徳