三大神社のフジは「砂擦りの藤」と言われています。地面に届きそうなくらいに長いという誇張的比喩で、もちろん白髪三千丈と同じ詩的な表現です。地元の人たちはそれくらいにこのフジを誇らしげに思い、そして守り続けています。
今日は、デイサービスのお年寄りたちが見に来ていました。
風の神様を祀る
三大神社というちょっと変わった名称のいわれは、3柱の偉大な神様を祀っているところからきました。その神様たちは、志那津彦命、志那津姫命、大宅公主命です。
このうち大宅公主命は、「日本書紀や古事記に登場するようなメジャーな神様で有りません。しかしその様な神様は実は本当にその地域に根ざした、その地域の神である可能性が非常に高いです(学校の授業で、近所にある三大神社という神社について調べています。祭神の一柱... - Yahoo!知恵袋)」とのことです。
残る志那津彦命と志那津姫命は、ともに風の神様とされています。Wikipediaは以下のように述べています。
神名の「シナ」は「息が長い」という意味である。古代人は、風は神の息から起きると考えていた。風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人に大きな被害をもたらす。そのため、各地で暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになった。
「息が長い」で私が思い起こしたのは、伊吹山の麓である米原市に息長(この読み方はおきなが)という地名があること。息長というのは古代の豪族で、えらく重要らしいのにとても謎だらけの系譜だといいます。天皇家につながる家系という話もあれば、渡来人の血統だという話もあります。
そっちの深入りは、古事記や日本書紀をこと細かく解説するサイトに任せておきまして、私がおもしろいなと感じたのは、伊吹山の麓は滋賀県の風力発電地候補にもなるくらいに風と縁の深い地域だということです。
風力発電は、神の息をエネルギーに置き換えることかと、いまあらためて思い直しました。
三大神社本殿。この本殿は江戸時代に修繕された建物だとされている。ただ、神社が位置する志那吉田地区の歴史は古く、大化の改新前後から実施されたという農地整理(条里制)の遺構が顕著。一町歩、坪といった和式の面積単位は条里制に起源をもつそうだ。神社の位置は、条里制の下では二十六坪小字伊吹といったらしい。
誰もいない早朝の藤棚です。5月13日まで藤祭りが開催されていました。実に上手な期間設定で、5月12日にはまだ生気のあった花が、翌13日にはすっかりしおれていました。
風の里の風の神様
この三大神社が位置する地区は草津市志那吉田町といいます。
上記Wikipedeaiによれば、志那というのは神の息で生まれる風のことですから、風の神を祀るとともに地名にまで神の名が充てられていることになります。
草津市に引っ越してきてからずっと、志那という古代めいた地名が気になっていました。中国を表す支那ではなさそうだし・・・近江は古くから渡来人の移動ルートでしたし、定着の場でもありましたから、何か歴史がらみの地名だという気がしていました。
今回、志那地区の名物であるフジを見に行ったことがきっかけで、三大神社の祭神が風の神であることを知り、ネットでさらに検索を重ねた結果、このあたりの風の強さがそのまま地名につながったのだろうと、自分なりの連想で納得することができました。
三大神社というのは明治初期に改称された呼び方にすぎません。天智天皇の時代に創建されて以来、この神社の公式名称は「式内伊布伎神社」でした。式内は「延喜式内」のことで神社の格を表しているだけですから、正味の名前は伊布伎神社。伊布伎は現代の漢字表記では伊吹。先述した米原市の伊吹から類推すれば、風の強い地域に用いられる名称だと思っていいはずです。
つまり、三大神社の祭神は、風の里を守る風の神として、ここに鎮座し続けてきたのだと、私は解釈しました。言うてみたらナウシカですか。
いまの時代の志那も、強風の吹きやすいエリアです。
志那はすぐそこに琵琶湖を控えています。
湖の向こう側の比叡山から吹き下ろす風が湖面を渡り、そのままの勢いを保ちながら志那に上陸し、高い建物といえば小学校くらいしか見当たらない平地を一気に駆け抜けます。その風は、広がる農地の上を自由奔放に流れ、草津駅前を目指すかと思いきや、どうやらうちのマンション辺りで方向を変えるようです。うちのベランダは風が吹きすぎて、洗濯物は倒れるし花は倒れるしと、妻お龍が嘆いています。
古代、その風は、琵琶湖を船で渡る人々を大いに難儀させたに違いないと私は思います。三角波の立つ琵琶湖はとても危険です。この地域が大化の改新前後に誕生した条里制農村だったことも考え合わせると、稲作に対する風の影響も無視できなかったことでしょう。
琵琶湖の水運からみれば、志那地区の対岸は、天智天皇時代には志賀の都でした。このあたりでは琵琶湖の幅が比較的狭くて、いまGoogle Mapで計ってみたら4km弱です。いにしえ人もここを渡ってしまえと思ったに違いありません。
湖を回って歩くとすれば25kmほどの距離。そして、歩いたとしても、琵琶湖から流れ出す瀬田川をどのようにして越えるのかという問題が残ります。いずれにせよ水を越えねばなりません。
したがって、志賀の都と志那の間では、船を用いた人の往来はさぞかし盛んであっただろうと思います。
志那の湖岸には、淡水真珠養殖場としていまも内湖が残っているくらいで、内湖のもたらす入り組んだ地形は、舞鶴の海と同様に、天然の良港だったことでしょう。さらに、三上山の特徴的な形状を目標にすれば着くべき方角を見誤ることもなくて、安心・安全の航路だったことでしょう。
ただ問題は風だった。気まぐれに吹く強風だった。
琵琶湖から吹き抜けてくる風にしょっちゅう閉口しているだけに、私はそう確信します。
この地に風の神が祀られたのも理にかなった話だ。水を張り始めた志那地区の田んぼを眺めつつ、風よおさまれの祈りの地だったのかと感じ入っていました。そう間違った推測でもなかろうとも思いました。
私が訪れた早朝も、風の神様はときおり長いため息をついていました。そのたびに風が吹き、藤棚から垂れ下がる花が揺れ、せっかく合わせたカメラのピントがずれました。本殿に向かって手を合わせ、お賽銭も献じましたが、神様の吐息は続きました。
風の止んだいまがチャンスとフジを大写しにしました。このブログをやっていなければフジを本気で撮影することはなかったと思いますが、いや、なかなか写しにくい花です。正直なところ、自分がフジにあまり感激してないもんですから、どう写真にしたら見る人が「おっ」と言ってくれるのか分かりません。
志那地区は草津市街から離れ、琵琶湖の近くに位置します。農村でもあり、新興住宅地でもあり。
老藤の根はどこまでも広がる
そんな風の里の早朝の神社に、藤古木保存会の男性が現れました。毎朝の日課だそうです。花をつけている間は朝の水やりを欠かせないんだと言っていました。その男性が便所の陰にある蛇口をひねると、藤棚を囲む水管のスプリンクラーから水が地面に広がりました。
今年いちばん長い花は1m76cmあるそうです。全長の何分の一かは藤棚の上にありますから、私たちに見える長さはそこまでのものではありません。もし藤棚がなければ、「砂擦りの藤」の異名どおり地面まで垂れ下がるだろうと解説してもらいました。
今年は花の数が多いと、その男性は言います。5月13日までの藤祭り期間を終えたらみんなで何本の房があるのか数えるそうです。男性によると、今年のいちばんの見頃は5月の6日か7日だったそうです。
砂擦りの藤は「老藤」とも呼ばれています。言い伝えでは、植樹された時代は藤原氏が大いに栄えた平安時代。その後、戦国時代には、織田信長の焼き討ちによって一度は焼失したといいます。ところが、焼き討ちされたにもかかわらずフジは自力で再生し、いまのように数多くの花をつけるに至ったと、まあ、このようにパンフレットには書いてあります。
ずーっと、境内一杯に根を張っているのだと、その男性は手を拡げて一回転しました。男性の仕草を見ていたら、見えない地中が見えた気になりました。その根が、この男性の心にも、地元の心にも広がっているのでしょう。
志那ーーー風の里。祀られているのは風の神。神の吹きかけた息に揺れるフジの花です。
毎朝の水やりが日課だという藤古木保存会のメンバー。おそらく会長さんか何か、責任ある立場の方だとお見受けしました。この方と出会った早朝にはいい写真が撮れなかったので、翌日の夕方も私は三大神社を訪れました。そのときも、藤祭りの片付けにこられていました。
0 件のコメント:
コメントを投稿