東京出張翌日、休みをとって靖国神社に行ってみました。「いつから右翼になったんですか?」と会社の同僚から冷やかされましたが、靖国神社っていったいどんなところなのか好奇心を抑えられませんでした。この目で見なければ分からないことがあるはずだと思いました。><>
こんなに広かったのか・・・
靖国神社の第一鳥居。大鳥居ともいう。爆風スランプの歌の通り、九段下の駅を下りて坂道を人の流れ追い越してきた。靖国通りを隔てた向かい側が大きなたまねぎ、つまり武道館だ。
第一印象は、「大きい、広い」でした。まるで競馬場にでも来たような広さを感じました。靖国神社の総面積は3万坪(99000平方メートル)だそうでして、これは平安神宮のだいたい1.5倍くらいの広さに相当します。
滑走路のように長い参道が、大鳥居から拝殿まで、500mを超える直線となって境内を貫いていました。1坪の空き地すらも貴重な東京のど真ん中に3万坪の大空間ですから、意表をつかれた心境になるのも当然でしょう。
2月15~16日の大雪から一転、東京は冬の快晴でした。温暖でいい日です。日本橋あたりのビル街とは違って、ここにはせっかくの青空を遮る建造物は何もありません。土地の広さと同じだけ空も広がっています。陽を受けた老木が地面に影を落としています。都心に位置しながらも、自然光の恩恵をそのまま受け取れる場所です。
これが靖国神社でなければいいのにと思いました。
のんびりした場所なんですけどねえ。
終戦と靖国神社
靖国神社の神門。とにかく人間の背丈が小さく見えてしかたのない境内だ。それだけいろんなものが大きい。押し出しの強さが大切にされている印象。
靖国神社は、私が思っていたよりもオフィシャルな雰囲気を持っていました。「政府公認」みたいな香りを漂わせています。
けれども、法律上はまったく公式な場所ではありません。靖国神社を運営しているのは、民間の宗教法人靖国神社です。税金で運営されてるわけではないんですね。
戦前はたしかに国営で、陸軍と海軍の共同管轄下にありました。それが敗戦後、GHQの「神道指令」によって国から切り離されました。1945年12月のことです。
その当時、国から切り離されたのはなにも靖国神社だけではありませんでした。GHQの命令で日本全国の数多くの神社が国の手を離れました。そして宙に浮いた状態になりました。その先はよきにはからえがGHQの態度だったのか、国から切り離した神社の将来はむしろ日本側の意志に任された形勢でした。
いっぽう日本側は、GHQの政教分離策によって神社が一斉に宙ぶらりんになる状況を予見し、神社を民間宗教法人として再出発させる腹案を早くから固めていました。その腹案でGHQと折り合えそうだという感触を得た政府は、それを閣議決定に持ち込みました。文部省は「宗教法人改正令」を起草し、全神社を宗教法人として再出発させるための法的根拠を整備しました。
このとき、靖国神社を国の公式な戦死者追悼施設に衣替えしてはどうかというGHQからの提案もあったそうです。これならば親方日の丸のまま進めます。ただし、宗教を捨てなくてはなりません。靖国神社総代会は神社のままでいく意向でまとまり、遺族を氏子とする宗教法人を選びました。
では、宗教法人になった靖国神社が、この3万坪の広大な敷地をどのようにして手に入れたのでしょうか?結論から言いますと、元からの国有地が無償で払い下げられました。
はじめGHQは、靖国神社のように軍国主義色の強い神社への国有地払い下げを許しませんでした。軍国的神社へのいわば嫌がらせです。土地を断って将来を絶つやり方でした。GHQは靖国神社に対する警戒心も緩めませんでした。1946年の秋から占領終了時まで、靖国神社の新たな合祀祭を禁じました。
しかし、やがて占領統治期間終了が迫るにつれ残された時間が減っていきます。さらには、早く日本の社会秩序を回復させたほうがロシアに油揚げをさらわれにくいという政治的判断もはたらいて、GHQは未解決課題の早期決着を重要視し始めました。GHQのこの方向転換が幸いして、靖国神社への国有地払い下げは1951年になって許可されました。
こんな無力な自分に何ができるんだろう
遊就館(靖国神社に併設される戦争博物館)の零戦。世界中に散逸した部品を集めて復元したものだという。このほかにも、特攻機桜花や人間魚雷回天も展示されていた。
という風に経緯をたどれば、戦前の価値観のままの神社が戦後民主主義の東京に同居し続けてきた理由も分かります。ただ、靖国神社は天皇崇拝指向の強い神社です。そして太平洋戦争の正当化にも熱心な神社です。理屈で考えれば、主権在民、人間天皇、戦争放棄の世の中とは相性のわるい同居のはずです。
いや、靖国神社はおかしいという話ではないんですよ。靖国は靖国の独自路線で然るべきだと私は思っています。
戦死者を祭神とする神社ですから、天皇崇拝指向も太平洋戦争肯定指向も、靖国神社の立場では当たり前だと思います。あれは間違った戦争でしたと認めたら、祭神の価値を自らの手で傷つけることになってしまいます。天皇家の聖戦を戦った聖闘士ここに眠るということで、鳥居の内側に限って靖国神社独自の世界というのなら、線引きがあって分かりやすいんですよね。それなら靖国問題も生じにくかったと思います。
しかし、現実は、さっきから私が感じている通りの存在感でして、境界線なしで戦後社会に適応しています。私の印象では、靖国神社が適応しているというよりも、社会のほうから過剰適応している感じでした。
靖国神社をOKしたい気持ちが、やっぱり、けっこう多くの人の中にあるのかもしれないと思いました。その割に、肯定的な気持ちをはっきり自覚している人は少ないのかもしれません。
私自身も、何度も何度もこの記事を書き直しているうちに、靖国神社をさほど否定していない自分に気づきました。
どういうことなのかよく考えてみたら、戦前で時が止まったような靖国神社のほうがなんだか戦死者の追悼気分に浸れるといった心情がありました。ノスタルジーとかセンチメンタリズムですね。そしてもうひとつは、靖国が右よりであればあるほど戦前の狂気が際立つという、追悼のお膳立て効果です。モニュメントとしての毒気を求めている自分に気づきました。
でも、個々人の心情ばかりじゃないでしょう。私のような庶民の目が届かないところ、手が届かないところで脈々と戦前が流れていたと想定しなければ、靖国神社のステータスを説明し切れません。総理参拝が正当化されるほどのステータスがどこから来たのか。そこを考えたくてこの記事を書いています。
前述したように、終戦直後の靖国神社は、きれいさっぱり国と縁を切って再出発しました。でも、それは建前にすぎず、国営を離れた後の進路ですらも国の閣議で決定されたように、靖国の将来像にちゃんと政府の意向が働いていた実態があります。
このいきさつは、国営だった神社の事後処理を国主導で行う趣旨だったと思います。そこに長年の主従関係も重ねあわせると、政府の意向に反する好き勝手が神社側に与えられていたとは思えません。
当時の副宮司だった横井時常氏には、存続のためなら宗教的理念の犠牲もやむなしとする現実的な発想もあったようで、これは古い録音テープに残されています。でも、結果はそっちに流れませんでした。
天皇崇拝の宗旨を残した宗教法人でいくのが靖国神社総代会の決定でした。政府自身も同じ希望でいたから靖国側の意向が通ったのだと思います。
当時靖国神社の将来決定に関与した人材は、戦前の日本の中枢で動いてきた政治家や官僚たちです。あの時代の保守層ですから、外国人に天皇陛下をコケにされてたまるかの反発心も強かったはずです。いまでいえば総理の靖国参拝を外国がつべこべぬかすなという感情ですね、それにも通じる自我が、当時の政治家や官僚を支配していたんじゃないでしょうか。なにせ、負けたのはつい昨日といったくらいの生々しさです。GHQとの折衝で小さな成功例を重ねつつ少しでもましな負け方に持ち込むことが、職業倫理の面からも重視されただろうと、私は思います。
どうして私がそう思うのかといえば、吉田裕さんの著書「昭和天皇の終戦史」を読んで、日本側もけっこうやれていたんだなあと実感したからです。
あの本からふたつのことが分かりました。ひとつは、敗戦直後の日本はまだまだ天皇の世の中で、政治家や官僚たちには天皇を守らなくてはと本気で思っていたことです。
もうひとつは、GHQを大いに接待したり、情報アンテナの人材を適所に配置したり、弱者には弱者なりの知能戦があったことです。営業マンの視線から、形勢不利な状況でも手を尽くしてみるもんだなと感心します。天皇のスケープゴートに罪を着せる策略まで含めて、日本のほうがアタマ良かった印象で、わりとGHQに対抗できています。
だから、ここがだいじなとこなんですが、終戦処理の何もかもかもがGHQの押し付けだったと解釈するのは行きすぎです。そういう解釈もまた「自虐史観」だと思います。
そりゃ、すべてが日本側に都合よく終われたはずもない。けど、靖国神社については、GHQのほうもいまいち満足できないまま日本を去ったようです。後になって公開されたGHQ資料や、当時のCIE宗教課課長だったウイリアム・バンスさんの回顧などを通じて、GHQの負け惜しみ感情が伝わってきます。
そして、もうひとつ無視できない流れがあると思います。それは、GHQの政教分離策を骨抜きにすべく奮闘した政治家や官僚、あるいは彼らの後継者たちがその後も政治の中心にあったことです。その政治状況は靖国神社のアドバンテージとして作用したはずだと私は想定しています。靖国復権を図ろうという気運が神社と政治の間で共有されやすい環境だったと思うのです。しかし、その復権活動の多くは人脈を通じて非公式に行われたことでしょう。戦後社会の建前があるからです。シンクロナイズ水泳みたいなもんで、水面下を映してもらうと水面上の姿がよく解るってやつですね。
保坂正康さんは、著書「『靖国』という悩み」のなかで、A級戦犯合祀は厚生省引揚援護局の意向に沿って行われたと述べています。引揚援護局と靖国神社の人脈が、A級戦犯合祀にものを言ったわけです。しかも、「富田メモ」として知られるように、A級戦犯合祀予定は秘かに皇室に伝えられていました。つまり、皇室と靖国神社とのつながりも決してなくなったわけではありませんでした。
考えてみれば、戦没者追悼に深く関わってきた神社なんですから、国との人脈まですぐに切れてしまうほうが不自然です。
で、人脈を通して遂行される事柄は何かと分かりにくい。
たとえば、やしきたかじんと橋下徹市長はお友達です。やしきたかじんと安倍晋三総理もお友達です。では、安倍総理と橋本市長はお友達か。どうなんでしょう。自民と維新が政策共闘関係にあるのは表の出来事だから分かります。しかし、裏のやりとりは見えません。でも、秘匿された何かがあるからコトが進展するのです。
といった実際例に合わせて想像力を働かせますと、靖国にはいろいろあったんだと、いろいろあったからこうなったんだと、そんなことが言えそうです。悲しいかな、サラリーマンしかやってこなかった私には、実際に何があったのか知る手だてがありません。
靖国神社の主義主張だけを取り出せばきわめて右寄りで、民主主義国家の総理大臣が参拝するにふさわしい場所だとは思えません。けれども、「何が悪い」と総理がちょっと開き直るだけで参拝が成り立ってしまいます。諸外国の反応や政教分離を根拠にした批判は炎上しても、それ以外の批判ではいまいち力不足みたいな、そんな問答無用性が靖国神社にはあります。その問答無用性の正体が実に見えにくいんですよねえ。
民営の一宗教法人にすぎない靖国神社なのに、事実上の地位と公共性は大きい。総理大臣の行動にまで影響を及ぼす社会的地位がある。
その流れがGHQの神道解体直後からもう始まっていたのかと思うと、時すでに遅しの心もちです。戦前の価値観を否定するところから始まった戦後社会のはずでしたが、結局のところはその戦後社会が靖国神社に政治的な存在意義を与えてしまいました。
この心境は何かに似ているなと気づきました。何だろうと思いをめぐらしてみたら、安倍政権を苦々しく思うときの心境でした。
帰ってきてから、三土修平さんの著した「靖国問題の深層」を読みました。三土さんは、靖国神社が一宗教法人として存続した経緯について、このような評価を述べています。なお、三土さんの本は680円ですが、そのエッセンスだけならこちらのPDFで読めます。戦後改革の矛盾の顕在化としての靖国問題 http://religiouslaw.org/cgi/search/pdf/200704.pdf
靖国神社の戦後改革は靖国派が描くほど「一方的な押しつけ」だったわけでもなければ、反靖国派が描くほど「理想的な改革」だったわけでもない。それは当時の日本の守旧勢力の利害関心をかなりの程度に反映した、駆け引きと妥協の産物だったのである。
実際にこの目で見てきただけに、三土さんの言わんとすることがよく分かりました。理屈でわかるというより、直感に来ます。
私の場合、靖国問題のやっかいさは、戦後、戦後と気楽に暮らしすぎてしまった自分はアホだと知ったやっかいさです。さらには、ついに安倍晋三のように右傾化した理念の持ち主が政権を握ってしまったいま、こんな無力な俺に何ができるんだろうという自問自答のやっかいさです。
靖国うどんはとてもユニーク
とはいえ、さっきからもうひとつ気になってしかたないのは、「靖国うどん」です。長い参道が公道と交差するあたりに「外苑休憩所」という建て物があって、そこに靖国うどんの看板がありました。実に昭和レトロな休憩所で、小津安次郎の映画に出てきそうな佇まいでした。靖国うどんというすっぴんくさい名前も気に入りました。
海の家みたいに全開にされた休憩所で、年代物の食卓に向かいました。
靖国うどんはめちゃユニークなうどんでした。まあ、具だくさんなこと。豚肉が写真の外にまではみ出してきそうです。
おいしかったんですよ。ちょっと甘めのおつゆでね。しいたけによく出汁がしみこんでます。懐かしさを感じる味でした。
田舎から出てきたのか、じいちゃんとばあちゃんが、遠くのテーブルで何かを食べていました。
あの人ら、どこか遠いとこから参拝に来たのかなあ。誰か身内が戦死したのかなあ。だとしても、2014-1945=69。短くても69年は経ってるわけやなあ。そんなに古い身内の戦死に手を合わせに来る人がまだまだいるのかなあ。家で仏壇に手を合わせるのと靖国で拝むのとでは何がどう違うのかなあ。
いろいろな思いが去来し、あのじいちゃんとばあちゃんの光景が映画のひと幕のように感じられました。靖国うどんの15分間ほどは靖国神社という戦前パビリオンに迷い込んだような感覚でした。
私は、職場から靖国神社まで近いこともあって、ときどき出向いて同神社の近況を見ておりますが、わざわざ上京なさって、お確かめになったのですね。まことに、おっしゃるとおりの性格の不思議な空間です。靖国神社をなるべく戦前の性格のまま残そうとする人々が、裏でいろいろ暗躍した結果として、占領終了後の同神社の姿が決まっていったのは、ご洞察のとおりだと思いますが、表立った記録が残っているのは美山要蔵元陸軍大佐や、横井時常権宮司や、ごく少数の人の言動だけですから、それらをつなぎ合わせて理解するのは、かなり面倒です。
返信削除が、このたび、貴ブログで、学術雑誌『宗教法』掲載の拙稿へのリンクを張っていただけましたおかげで、拙著を読んでいるひまのない忙しい方にも、靖国神社戦後改革の独特のねじれた構造を、広く理解していただけるようになるのではないかと、まことに光栄に存じました。特にこのごろでは、同神社に関する問題を、もっぱら「中国、韓国との外交問題」という観点からしか論じない人が多くなり、私がざっとネット上で検索したところでは、新年に入ってから、「もともと国内問題としての靖国問題があったではないか」ということを強調している記事は、江川紹子さんのものだけでした。それだけに貴ブログの理路整然とした展開は頼もしく存じます。
まさか三土先生からコメントを頂戴できるとは!
返信削除めちゃ光栄です。舞い上がっています。ありがたく存じます。
靖国神社で感じたのは「????」としか書きようのない何かでした。
実際に見物し始めましたら、遊就館をはじめ、マニアックな神社でした。
ここに総理大臣が来るのならせいぜいお忍びだろうと思うのに、実際は堂々と参拝していますから、ますます「????」でした。
先生のご研究がその「????」を一発解消してくれました。
PDFを紹介して本の売り上げの邪魔になったら申し訳ないなあとためらいながらも、あのエッセンスでハッとした人が本屋に走ってくれるのを期待しております。
先生のご指摘通り、足りない分を想像に頼って、なんとか辻褄を合わせております。
そこは素人談義としてお見逃しいただければ幸いに存じます。
私が最初にコメントしたとき以降も、さらに推敲なさって、説明を充実なさったのですね。「終戦処理の何もかもがGHQの押し付けだったと解釈するのは行きすぎです。そういう解釈もまた『自虐史観』だと思います」というのは、まことに当を得たご指摘で、ことあるごとに「自虐史観」、「自虐史観」と騒いでいる連中に、頂門の一針として、読ませてやりたくなります。
削除「天皇の人間宣言」にしても、GHQから示された原案に対して、日本側はうまいぐあいに抜け道を作るように文章を作り変えていますものね。バンスさんらは「天皇をして神の裔となす架空なる観念」を否定したかったのに、できあがった「人間宣言」では「天皇をして現御神となす架空なる観念」だけが否定されるようになっていて、「天皇=神の裔」という国体論の根幹は必ずしも否定されないように、表現が巧妙にすり替えられていますからね。
その一方、敗戦前後の政府の作文の中には、バカな失敗作もありますね。「終戦の詔勅」の中のいちばん肝心な部分につき、漢学者の安岡正篤が「義命の存する所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」と、格調高い文案を作ってくれていたのに、バカな大臣どもが「義命という言葉は国民にわかりにくい」と言って、「時運の赴く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」に変えてしまったとか。どっちにしろ、あんな難解な文語体の文章は、耳で聴いただけでは、ほとんどの国民(小卒はもとより、旧制中学卒以上の学歴の人でも)が完全には理解できない文章だったのですから(西洋の例にたとえれば、ローマ教皇が出すラテン語の回勅のようなものですよ)、格調高い「義命の存する所」のままにしておけばよかったものを。真正の右翼なら、GHQがどうのこうのと言って被害者意識をあおる前に、まずあのときの鈴木貫太郎内閣のバカ大臣たちに対して憤るべきでしょう。
いずれにせよ、GHQのスタッフにせよ、それを迎え撃った当時の日本の役人にせよ、どっちも普通の人間です。自分らの目論見どおりに満足のいくようにやれた部分もあれば、あとから顧みて、本人自身がほぞをかむようなヘマもやっています。歴史を知るということは、そういうことを等身大に理解することでなくてはなりません。
三土先生
返信削除再びコメントを頂戴しまして、ありがとうございます。
お互いに非人道的なことをやりあったどうしですし、お互いの自分勝手を通したくて戦争をやったわけですし、敗けたほうに不利を押し付ける目的もお互い様でした。
だから、たしかに押し付けなんですけど、それは戦争をやった当然の結果ですし、押し付けだと不満をもつのは理屈に合わないと思います。
それに、私は1952年生まれで、戦後教育の中でスクスク育ったせいか、負けてよかったという考え方が身についています。
1977年放送のNHK特集「日本の戦後」をオンデマンドで見ていましたら、なにごとも人と人のせめぎあいを通して決着していたことが分かります。先生のおっしゃるように、普通の人間同士だと私も思います。
この案を飲んでくれたらあなたのこれまでの地位を保証しましょうというGHQの戦術もあったことでしょうし、いろんなことを大袈裟に考えすぎなくてもいい気がします。さっぱりした目で見られるのは、当時への思い入れが薄い戦後世代ならではですので、三土先生がおっしゃるように、みんなもっと遠慮なく等身大に理解すればいいと思います。
先生のおっしゃっている天皇の一件ですが、そこをもっと勉強したいと思っています。正直なところ、人間宣言と呼ばれるあの詔書は文章が難しくて、何が言いたいのかよく分かりません。私の場合、そこから勉強していかなくては。
私の祖母は明治生まれで、私はおばあちゃんっ子でしたが、祖母も、祖母と同年代の大人も、天皇さんとか天ちゃんとか、馬鹿にしたりすごく親近感を表したり。えらい人だとは思っていても、神の末裔だとは思っていなかったようです。
そんなこともあって、神の裔であることを否定したところで何がどう変わったわけでもないように見えます。そんなん当たり前やんかと、祖母たちは思っていたことでしょう。それならあれはいったい何のための宣言だったのかなと、そこをつっこんで知りたいと望んでいます。
「義名」の一件は、私も「義名」のほうがカッコいいと思います。言われてしかたなくやることじゃないんだよ、こっちのほうがいいと自分が決断したからだよというニュアンスがあふれてますからね。いま振り返れば、戦後70年目にしてこんな具合になってきたのは、終戦後の日本にその心構えが足りなかったからなんでしょうね。