2015-01-23

放出という珍地名(大阪市鶴見区・城東区) 草薙剣伝説まで登場して

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 「放出」という地名が大阪市内にあります。読み方は「ハナテン」です。ナビで走っていると、こんなに珍しい地名にも気づかないものなんですねえ。今日、初めて気づいて、さっそくブログのネタにしています。放出は鶴見区・城東区の2区にまたがる地名です。

 

放出からはドバっと水が放出されていた(のかな?)

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 放出ホルモン。ここの地名が放出だと知らなければインパクトありすぎの店名ですよね。放出とホルモンはけっこう相性のいい言葉どうしなんだとこの看板で知りました。

 さて、放出とは何かをドバっと出すときに使われる言葉です。では、熟語の放出ではなくて「はなてん」と読むほうの放出あたりでは何がドバっと出ていたのか。
 いや、ホルモンじゃないですよ。答は水です。川の水です。

 大阪の川の流れは、いまと昔で大きく異なります。その昔、放出あたりでは大和川と寝屋川が合流し、一本の大きな川となっていました。ふたつの川の合流地点は河内・摂津の国境です。つまり、国境地点で河内国の水が一気に吐き出されていました。これは、まさに放出です。

 
いこまかんなびの杜というブログによりますと、河内・摂津の境界線には国境堤が全長12kmにわたって連なっていたといいます。上に述べた大和川は、その国境堤を横切って摂津国に流れ込んでいました。水の通り道まで国境堤で塞ぐわけにはいきませんから、全長12kmに及ぶ長大な堤がそこだけは切れていたはずです。その切れ間を大きな川が流れる様相は、これもまた放出とよぶにふさわしい光景です。

 河内・摂津の両国は国全体が水はけのきわめてわるい低湿地帯でした。川の流れ方ひとつで洪水の被害が決まります。大和川は河内国内の水という水を集めて摂津国に運び出す川でした。国境堤のあちら側とこちら側で、いろいろな人がいろいろな思いをもって国を越える水を見つめていたことでしょう。人々の思いが「放出」という地名に詰め込まれているような気さえします。

 ただし、これだけ言っておいて申し訳ないことに、だから放出という地名になったのだという証拠はどこにもありません。残念でした。

2015年1月23日追記:「大阪の地名由来辞典(堀田暁生編:東京堂出版)」は次のような解説を加えています。

☆保元2年(1175年)の「榎並荘相承次第」という史料に「放出村」の名前がある。「九条家文書」、「後法興院雑事要録」など南北朝・中世の史料にも「仲牧放出村」と「仲御牧放出村」の形で現れる。
☆読み方はもともと「はなちで」。「摂陽群談」という史料は「ハナチデ」とふりがなをふりつつも、「世俗放天と称す」と注記を加えている。このことから、江戸時代中期には「はなてん」になっていたことが類推できる。
☆地名の由来は、①大和川の放水路があったため ②牛馬が放牧されていたため など諸説がある。
☆一般に「放出」とは住宅建築用語で、邸宅の寝殿の外部に付随した建物を指す。建築用語では「はなちいで」になる。
領主の目で見れば、放出は川向こうの飛び地的所領だったため、建築用語にたとえて「放出」と呼んだ可能性もある。(邸宅 寝殿 放出でGoogle検索すると、建築用語としての放出が数々ヒットします)




”はなて”に”ん”がついたのは関西弁ならでは

 放出という地名がいつ成立したのか。その点はまったく定かではありません。1371年の文献にはすでに「上瀬放出の渡しと」いう書き方で放出の二文字が現れているそうですし、それ以前の和歌には「放出の通川」という形でも使われているそうです。国境堤の完成が800年頃だといいますから、その時代にまで遡る地名かもしれません。ことのついでに、この国境堤には「劔畷」という名前がつけられています。

 ■河内 治水のみち5 剣畷(守口-放出): どこでも Walkin'というブログは、放出周辺の散策途上で見つけた観光案内板を写真で載せています。その写真を見ますと、「放手の渡し」と表記された1行があって、写真をさらに拡大すると、「放手」には「はなて」とふりがながふられています。そして、「放手の渡し」が江戸時代1704年まで存在したと記されています。

 となりますと、こういう風に考えられないでしょうか。
 放出という地名が古くからあった。最初の読み方はともかく、江戸時代には「はなて」という言い方が一般化していた。それに引きずられて「放手」という漢字表記も幅をきかせた。しかし、それ以降のどこかの時点で、漢字表記が「放出」、読み方が「はなてん」に固定化された。

 「はなて」が「はなてん」に変化したのは、そのほうが言いやすかったからでしょう。「はなて」と「はなてん」だけを取り出した比較なら、言いやすさにそれほどの違いはありません。しかし、他の言葉とのつながりやすさを比べたときには、「ん」ひとつで大きく違ってきます。関西弁スピーカーならご承知の通り、「ん」なくして関西弁のイントネーション、リズム、スピードはあり得ないのです。


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JR放出液、いや、放出駅。片町線が通っている。片町線は京橋~木津(京都府)を結ぶ通勤・通学路線。京都府に入ってからは学研都市線と呼ばれる。

DSC06452生駒山が見える。方角は真東。大阪の景色の眺め方がだいぶ分かってきた。生駒山がよく見える
土地ほど歴史が古いという共通傾向がある。

DSC06525放出駅東側の踏み切りは空かずの踏み切り的性格がけっこう強い。このときも両側の道路にはクルマの長い列が生じていた。

大阪のアーケードはタイムトンネル 入れば昭和に逆戻り

 放出駅北口のみゆき通りは、大阪のあちこちで見かけるアーケード商店街です。こういうアーケードに入れば一発で昭和に逆戻りするのもまた同様です。大阪の街では、金のかかった街並みから道路一本離れるだけで意図的に変化を拒んだような昔ながらの風景に出会います。

 「喫茶グリル 幸 2号館」という店を見つけて昼ご飯を食べました。グリルの3文字に心惹かれたからです。
 これが素晴らしい体験でした。何がどう素晴らしいって、客の誰ひとりとしてスマホをいじっていません。ランチを食べているか、話し込んでいるか、でなければスポーツ新聞に目を通しているか。こんな光景をもう長い間目にしたことがありません。


20150120-DSC06474JR放出駅前のみゆき通り。奥が暗くてよく見えず、なにか異空間へ入っていくようなワクワク感があった。

DSC06478みゆき通りの入り口には「コーセツ放出」。コーセツとは公設のことで、公設市場解体後に総合食品スーパーに様変わりした。安さには定評があるそうだ。

DSC06485本当に狭い通り。長く商いを続けてきた店が主流。大阪のあちこちでこんな風景を目にする。暮らしに近い場所ほど地味で旧い。

DSC06482いまどきこのような長屋は珍しいが、大阪ではわりと見かける。3軒続くうち1軒は空き家で、残る2軒は人が住んでいる。

DSC06487「喫茶グリル 幸 2号館」でランチを食べた。エビフライとヒレカツ。写真では見えにくいが、エビの向こう側にはハムがあってマヨネーズがかかっている。喫茶店のランチはかくあるべしと思った。

DSC06492このコーヒーを入れてぴったり1000円だった。格別に安いとはいえない値段だ。

阿遅速雄神社で放出イコール河口ではないかと思いついた

 耳の切れたネコがいました。阿遅速雄(あじはやお)神社の裏参道というのか、児童公園から神社への路上でした。耳が切れているという言い方は正しくなくて、昔の改札口を通ったかのように耳にパンチ穴が入っています。

 人なつっこい野良猫にはよく出会いますが、このコほど人なつっこいのは初めてでした。近づいてきてスリスリ、スリスリ。そこまで近いと写真になりません。人なつっこい性格が幸いして餌には困ることがないらしく、毛並みはツヤツヤ、目ヤニもなし、背中を撫でた感触では健康そのものです。このあたりでは名物ネコなんだろうと思いました。


20150120-DSC06497やっと離れてくれてやっと写真が撮れた。そんな野良猫は珍しい。とても人なつっこい。このあたりの名物ネコなんだろう。

DSC06507阿遅速雄(あじはやお)神社。新羅の僧侶・道行が熱田神宮から草薙剣を盗み出したが、逃走経路の海上で大嵐に遭遇。これは神罰だとばかりにこの地で剣を手放した。その草薙剣を20年間ほどこの神社が祭祀していたという伝承。

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とても太いくすの木があった。樹齢400年超で大阪府の天然記念物。これが京都ならばなんやかんやで観光地化しそうだが、大阪では近所づきあいの神社に思いがけない由緒の深さが秘められていて、そこが魅力。


 で、この阿遅速雄(あじはやお)神社の石碑には以下の様な物語が境内の碑文に刻まれています。

天智天皇七年(六六八年)新羅国の僧、道行、熱田宮より草薙御神剣を盗み帰途、難波津にて大嵐に遇ひ古代大和川口放出村に漂着 これ、御神罰なりと恐懼
し御神剣を放り出し逃げ去る・・・

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草薙剣事件(新羅の僧侶・道行が熱田神宮から草薙剣を盗み出した)を伝える石碑。


 Wikipediaは、この伝承が放出という地名の由来のひとつだと言います。しかし、「古代大和川口放出村に漂着」と記されているのですから、この伝承が生まれる以前からここには放出村という地名がついていたと考えるほうが妥当です。

 そして、海で嵐に遭った船が漂着したのですから、古代の放出村は海辺だったことになります。碑文にも「大和川口」とあります。古代の大阪湾は海岸線がもっと内陸部に食い込んでいたそうですから、放出が海辺の村で河口に位置したとしても決して不自然なことではありません。

 とすれば、大和川の水が海に流れ出る場所として放出という地名になったのだと想定することもできます。

 大阪湾の満潮時の線をそのまま摂津・河内の国境線にしたという話も残っています。いまでいう海上保安庁のような役職の権限が満潮時の海岸線まで及び、その権限が及ぶ範囲を以って摂津国を定めたというのです。後に築堤された国境堤が放出を通過していた史実を重ねあわせると、大昔の放出が海岸線沿いに位置した可能性はさらに高まり、放出とは河口のことだったとさらに想定しやすくなります。

 大阪の歴史を知ろうとするとき、いちばんやっかいなのが大昔の大阪湾です。地球全体が寒くなって大阪湾の海水面が退行。そこに砂州の発達や河川の堆積作用が加わり、社会活動可能な陸地が徐々に広がっていきました。しかし、そうして生まれた陸地も、河内湖をはじめとする水だらけの地理環境でした。ビチャビチャだったわけです。現在の大阪市の外観からは想像もつかない景色です。


DSC06529駅前商店街の新しい店舗でも二階を見上げればめちゃ古そうな屋根瓦を乗せたままだ。

DSC06495放出のそこかしこで見かける足の裏マッサージの貼り紙。

DSC06519現在の放出はなにも放出しない。すっかり手なづけられたこの第二寝屋川と寝屋川がコンクリート護岸の水路となって通り過ぎるだけ。




 

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