2013-09-01

あまちゃん 誰も死なない


 来週のあまちゃんは、東日本大震災の発生から始まります。
 8月31日の思わせぶりな終わり方から、夏ばっぱが死ぬのか、ユイちゃんが死ぬのかと、気が気でない方もおられることでしょう。
 私は、夏ばっぱにも、ユイちゃんにも死んで欲しくないから、誰も死なない理由を一生懸命に考えました。


★誰も死なない 理由その1 筋書きとして無理がある

 大地震後も、アキは、東京でアイドルの仕事を続け、夏になるまで北三陸市には帰りません。これは予告編ではっきりしています。
 夏ばっぱやユイちゃんが死んだにもかかわらず、アキが仕事を理由に東京に留まるなんて、筋書きとして不自然です。
 アキにできることは、アイドルとしてみんなを元気づけることだとかなんとか、誰かが告げるのかもしれませんが、そういう教科書的発想に従っては、アキのキャラに反する気がします。
 クドカン本人が、大震災を描くことが目的のドラマではないと表明しています。地震発生の3月からその年の夏までを、たった1週間でやってしまおうというのですから、それほどこみいった中味にはできないと思います。
 ドラマの性格から考えても、夏ばっぱやユイちゃんが死んで、それで何かを言えるようなドラマでもありません。

★誰も死なない 理由その2 NHKが許さない

 NHKは、東日本大震災の被災地や被災者に寄り添う姿勢を示し続け、数多くのドキュメンタリーを放映してきました。
 東日本大震災で最愛の人を失う悲しみを、たかが朝ドラのために、再現する必然性があるのか、です。
 あの震災でたくさんの人が実際に亡くなってるじゃないですか。だから私たちも死なせますよーーーというようなことでいいのか。あなたが最愛の人を失ったのはしかたなかった、あれだけの地震と津波なんだから当たり前なんですよんですよ、みたいな姿勢でいいのか。NHKはそのようなスタンスはとれないでしょう。
 倫理的正当性も判断しにくいことです。被災地からの反発を食らえば、今後のドキュメンタリー制作に支障をきたします。
 震災で最愛の人を失う筋書きを必要とするドラマならば、元から放映しないと思います。

★誰も死なない 理由その3 震災の利用は作家の無能を示すだけ

 あの震災を描くなんて、ドラマでは無理です。
 あれだけの過酷な現実をみんなが知っています。言葉にならない感情で日本全国が覆われた出来事でした。
 ドラマの世界があれを超えることは無理です。ドラマが何をどう頑張っても、作り物の悲しみを表現するにすぎず、現実が私たちの心にもたらしたものには勝てません。
 それでも人を死なせるのなら、それは、あの震災におんぶにだっこのドラマ作りです。そんな程度のことしかできない奴かと、クドカンの無能さが証明されるだけです。


 8月31日の放送は、夏ばっぱが元気を失くして寝込んでいるシーンや、ユイちゃんの悲しい運命を匂わせるようなナレーションなど、思わせぶりが過ぎる演出でした。
 それに煽られた連中が、2チャンネルを主体に、誰が死ぬかの予想を楽しんでいます。あの震災がもう他人ごとになってしまったのかと、嘆かわしいかぎりです。

 クドカンもNHKも調子こくなよ、というのが私の本音です。
 ここで大震災をもってくるストーリーが、作家の才能によるオリジナルであるのならば、その効果をどう使おうが、かまいません。
 けれども、これから起きるのは現実に起きた大地震で、誰もが被害の甚大さを知っています。誰がどんなに悲しんだかも知っています。
 昨日の煽り方は、現実の大震災がみんなにもたらした心理を利用し、そこに安々と入り込んでるだけじゃないですか。そういう狡猾さが許されるとは、私には思えません。高視聴率に溺れて、自分らのやることはなんでも支持されると思い込んでる節があります。

 これで、夏ばっぱやユイちゃんが死ぬのなら、それに見合うだけのものをちゃんと残せよ、震災の悲惨さをドラマに流用するだけではなくて、きちんと日本中を納得させるだけの何かを見せろよ。
 と、いじわるを言いたくなりますが、その力量をもった作家や演出家がいるなんて、思っていません。

 そんな心境もあって、私はあのドラマに反発し始めています。

 あのドラマは、人間関係の変わり方を、そうしといたほうがおもしろいからという動機で進めてきました。近頃の太巻の豹変ぶり、一度は離婚したアキの両親がまた寄りを戻しそうな含み、鈴鹿ひろみと太巻が夫婦だったこと、種市先輩がアキに惚れてしまったことなど、こういうのは人間描写のための設定ではなくて、話をおもしろくするための設定です。なんでそうなるのかなんて要素はありません。
 そのクドカン流手法がつまらないと言いたいのじゃなくて、私はむしろ大いに楽しませてもらいました。

 けれども、夏ばっぱやユイちゃんが死んだほうがおもしろいからという発想を震災場面にまで持ち込むのならば、クドカンの作家生命はここでおしまいです。作家としてよりも人間の資質が問われます。
 あれだけの震災が実在したのに対して、じゃあクドカンは登場人物を死なせないおとぎ話的展開でどうやるのか。
 そこがクドカン流朝ドラの真骨頂じゃないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿