事故現場には、数多くの献花や飲み物が整然と並べられていました。
由良川。音無瀬橋。福知山城。大江連峰・・・ 福知山を象徴する景観の数々が、夕方の日差しに照らされて、コントラストを増し始めていました。
これが、2013年の福知山の夏か。本当にそうなのか。心は複雑でした。献花台の前に立って手を合わせ、亡くなった3人の方の冥福を祈りました。
せっかくの花火大会が・・・
テレビの中継車が何台も来ていました。首にタオルをかけたカメラマンやスタッフたちが、時間を持て余して雑談していました。事故発生時刻と同じ午後7時半を待って、事故からちょうど1週間経った現場を中継するとのことでした。
「1週間なんて、マスコミが勝手にこしらえる節目ですけどね」とひとりのカメラマンが言いました。たしかにその通りです。どのようなひと区切りもまだついていません。
知人のAさんは、「花火だけの町やのに、こんなことになって、淋しいかぎりで・・・大河ドラマに明智光秀やってもらわんと、福知山はどうにもなりません」と言います。
Aさんは根っからの福知っ子です。この花火大会が「堤防祭り」という名で親しまれていた頃から、8月を迎えてわくわくそわそわする心を抑えられませんでした。北近畿で1番とも京都府で1番ともいわれる花火大会に誇りも感じてきました。
それだけに、楽しさや誇らしさのすぐ隣で危なさがこっそり機をうかがっていたなんて、そう安々と認めたくはないことでしょう。Aさんだけではなくて、福知山の人たちに共通の気持ちだと思います。
マスコミによる背景分析、警察の捜査に進展なし
楽しさや誇らしさのすぐ隣に危なさがあることをいちばんよく知っていたのは、花火大会実行委員会かもしれません。
記者会見における実行委会長・谷村紘一さんの発言は、露店の防火対策を露天商組合に丸投げしてきたと述べるに等しい内容でした。今回のような事故を主催者側の努力で防ごうとする姿勢はなかったことが伝わってきました。
谷村紘一さんの発言には、「業者の組織は、我々が深く入っていけず、先方もあまり関与されたくない雰囲気がある。そうした慣習のもとで出店を許可していた。今後、見直していく必要があると思っている」という告白めいたものもありました。8月16日の読売新聞がこれを報じましたが、この発言部分は、その後、オンライン記事から削除されています。
火災事故を起こした露天商の出店申請からは、虚偽や不備が見つかり、実行委の出店許可が穴だらけだった様子も明らかになっています。追い詰められるいっぽうです。
ゆるゆるでいくしかなかった、福知山が誇る花火大会をツブすわけにはいかず、よくない慣習も温存してきた。そんな一面もあるはずですが、釈明できる状況にありません。
きわめて異例の事故とはいうものの、全国の祭礼やイベントが参考にすべき事例がいくつも含まれていると思うのですが、報道は日を追うにつれて浅い内容ばかりとなり、いまではこの話題を意図的に避けているような印象すらあります。
火元となった露天商男性の氏名は報道されていません。本人の事情聴取や実地検証がまだ済まされておらず、目撃証言だけの段階ですから、いまはまだ怪我人の中の一人として扱う他なく、そのために氏名が差し控えられているのかもしれません。
しかし、通常の火災でも火元の氏名は出されますし、今回の場合はこれだけ目撃証言が揃っている上に、京都府警が業務上過失致死容疑を固めています。その状況で氏名が公表されないというのは、どこか不自然です。いやいや、公表によって立場をわるくするのは警察だからという噂もささやかれていますが、真相は分かりません。
当初は、比較的早期から事情聴取が進むとみられていましたが、火元となった男性露天商の火傷の具合が重症だとの理由で、いまだに捜査進展のニュースはありません。
損害賠償対応は進むのか
心配なのは、亡くなったり怪我をした人たちへの損害賠償です。長期化が懸念されています。
実行委は花火大会賠償責任保険から支払う意向を示しています。しかし、実行委に誠意があっても、保険会社がどう応じるかです。
私は、みっつの点で心配があると考えています。
ひとつめは、時期です。
保険金支払いに際しては、実行委と露天商組合の間の責任度合決定に時間がかかると予測されていることです。
火災の直接的原因は、明らかに露天商の不注意です。いっぽう、実行委が加入していた保険は、花火による怪我や火災などが対象で、今回のような事故とは趣旨がなじみにくいと報道されています。
単に支払額の按分決定だけではなくて、そもそも花火大会用の保険で支払う筋合いの事故ではないと実行委側の保険会社が言いだしかねません。そうなってきますと、ますます時間を要することになります。
ふたつめは、金額です。
露天商組合が加入していたのは、賠償総額1千万円という小さな保険です。これを被害に遭った60人以上で分け合うことになりますから、1件あたりの金額は知れたものです。
仮に、誰かに対して露天商組合のほうの支払額が10万円に決まったとします。このとき、直接の責任度合が小さい実行委のほうが、露天商組合よりも大きな金額を負担できるのでしょうか。それでは損害保険の理屈に合わないという気がしてしかたないのです。
奇しくも、実行委会長・谷村紘一さんは、道義的、包括的な責任はあっても第一義的責任はないと表明していました。実行委には行為上の責任がないとするのなら、それでは何を正当な理由に据えて保険会社に多額の損害賠償を訴求し得るのか。私はいぶかしがっています。
1件あたりの損害賠償がものすごく小さな金額になってしまう可能性を危惧しなくてもいいのでしょうか。
みっつめは、露天商に対する管理不行き届きです。
記者会見には、実行委が露店業者を作為的に放任し続けていたニュアンスが濃厚に現れていました。その実態があるにもかかわらず、露天商の事故に対して保険金を適用して欲しいと、保険会社に堂々と交渉できるのでしょうか。
福知山のケースでは保険金がいくらくらい支払われるのだろうかと全国の花火大会関係者が注目するなか、保険会社としては甘い前例を作りたくないはずです。保険会社が実行委の不備をついてくるおそれは十分にあります。
考えれば考えるほど、ことはそれほど単純ではなさそうに見えてきます。私の杞憂であってくれと祈っています。
同じ構造は持ち越せない
露天商任せの実態は、全国各地の祭礼やイベントにも潜んでいるに違いありません。でも、事故が起きてしまっただけに、悔しいけれど、福知山がターゲットになります。福知山の誇りだった花火大会が、一転して福知山の恥に変わってしまうのかもしれません。
その恥の上に、日本全国が、こそこそと方向修正を図るはずです。
「マスコミはまだまだ福知山のことをたたくやろうし、福知山線の脱線事故は尼崎やのに、あれと福知山の区別がついとらん人はなんぼでもおるし、こうなったら、全国から模範にされる花火大会をやるしかないなあ。ここからはみんなの責任や」
前出のAさんは、そう言いました。さすが根っからの福知っ子です。
しかし、まだ花火大会の継続を議論するときではありません。亡くなった方、怪我をした方への損害賠償がなにひとつとしてはっきりしていません。
それに、これまでの花火大会は、いったんここでご破算、リセットすべきだと、私は思います。
実行委が露天商組合に干渉しなかったのは、それが慣習だったからです。単に慣習だから従うというだけではなくて、実際のところ、「あんたら素人が自分でやってみたら」と言われてもできないことだったのでしょう。まあ、とにかく露店が多ければにぎやかだし、出店料収入が増えていいという考え方もあったと思います。
そう考えると、実行委を批判すればそれでいいというものでもありません。いわば必要悪のようにして続けられてきた関係だったという理解のしかたは必要だと思います。しかし、この構造を今後も持ち越しては、何も変わりません。
今回の一件を、暴対法や暴力団排除条例に通ずる社会正義の面から語ろうとする人もいます。でも、それでは話が広がりすぎて、論点がずれやすいと思っています。
ただ、今回の事故を通じて、露天商組合というのはひとすじ縄ではいかないパートナーで、露店の防火対策にすら口出しできないことがはっきりしました。
露店を集めるというのは、えてしてそういうものなのでしょうが、だからといって、「何言ってるんですか、そういうもんじゃないですか」という申し開きはさせてもらえません。そうするしかないのにしてはならないことですから、世間からコテンパンに言われるリスクを常に背負っています。
そうするしかないのにしてはならないことは世の中に多々あります。企業活動にはその局面が多いだけに、コンプライアンス(倫理遵守の精神)がうるさく叫ばれています。
それでもなおかつ、やるというのなら、ほころびが出ないように細心の注意を払うしかありません。ところが、実行委の記者会見を見れば、露天商組合が相手では何も口出しできず、転ばぬ先の杖さえ持てなかったわけです。
71回目までの花火大会は、たまたま何もなくて拍手喝采。ところが、72回めの失態ですべての賞賛を失ってしまいました。
そうです、こういうのは、何かあった途端に、怠慢が生み出した失態だと言われるやり方なのです。努力を重ねたけれど失敗したとは誰も思ってくれません。
そんな綱渡りを冒しても、見物客が夜店に落とした金は福知山市に一銭も残らないのですから、ハイリスク・ハイリターンですらありません。合理的な説明をまったくつけることのできない行為です。
こうした不合理なやり方であの花火大会が支えられていました。花火大会といえば福知山の財産です。荒っぽいやり方で世間からの信頼を傷つけることはできません。そこがよくなかったと思うのです。
そして、なによりも、実際に3名の方が亡くなっています。必要悪的な解釈はもう許されなくなりました。
何の落ち度もない人たちが亡くなったり大火傷を負ったりしているというのに、実行委は損害賠償にすら確信をもてない状態です。夏休み中の行事だっただけに、被害に遭ったうちの半分は12歳以下の子供です。空君の話にどれだけの人が泣いたことでしょうか。
命より露店を大事にする町だと言われては恥ずかしすぎます。露天商組合との決別宣言なしに次のステップには進めません。
規模ばかりに目をやらない発想
これからも福知山の花火大会が続くかどうかは、福知山の人たちの気持ちに大きく左右されます。
これまでは、規模(打ち上げ数・観客動員数・露店出店数など)がやり方を引っ張ってきたのだと思います。規模を目いっぱいまで追いかける運営ですから、たとえ背伸び気味でもそのやり方を続けざるを得ません。そのなかで、安全性軽視もやむなしとする思考パターンが定着してしまったのでしょう。
身の丈に合った運営手法に変えたとき、再スタートは思い描いた以上にコンパクトな花火大会になるかもしれません。でも、コンパクトにはコンパクトの持ち味があると思います。
たとえば、あの混雑が本当に観客のためだったのかと問い直してみるのも、ひとつではないでしょうか。
打ち上げ数が少ないとなったら、よその人はいっぺんに減るでしょう。その分、ゆったり観賞できます。ゆったり見る花火は、また別の満足感がありますよね。これまで混雑を嫌っていた本当の福知山住民が、久々にやってくるかもしれません。露店が去り、観客が福知山市内中心となれば、地元商店の出店を誘致しやすいのではないでしょうか。
ゆったりとなれば、車椅子の人たちも安心してやってこられます。老人ホームのお年寄りや各家庭の高齢者もそうなんですが、これまで実質的に締め出されていた人たちです。その人たちから、福知山へ行けば動きやすいし安心だという声が出れば、今までとは違うやりがいが生まれそうです。
それと、露店です。
8月29日号の週刊ポストに露店のコスト内訳が書かれていました。その記事を読んで、仕入れ値の安さや、品質の低さがよく分かりました。にもかかわらず、値段があれだけ高くなるのは、主に以下の3つの要因を反映しているからだそうです。
①設備にかけた資金を回収する必要性
②露天商組合に支払う会費や手数料
③悪天候などによる行事中止時への備え
週刊ポストを読んでも分かりにくかったのが②です。会費は年1万2千円と書いてありましたが、代行料のような形の金額は不詳でした。
私も露店がずらっと並ぶ光景には心躍りますし、露店の商品価格には、歴史的に見ても「ご祝儀」の意味合いが強いことも分かります。
けれども、このような事故が起きてしまった現在、賢い消費者としての節度を建て直す機会かもしれません。
堤防の神様から難題だ
花火大会がコンパクトになっても、福知山はそう簡単にシラけないと思います。ドッコイセがあるからです。
ドッコイセは、明智光秀による福知山城修復工事が起源だと聞いています。工事に駆り出された人夫たちの「どっこいせ」というかけ声から生まれ、以後400年にわたって踊り継がれてきたというではありませんか。その光秀は御霊神社に祀られています。光秀がここまで英雄扱いしてもらえる町なんて、他にあるでしょうか。
「堤防神社」も意外でした。堤防を神様に見立てた神社は、福知山をおいて他にないと聞きました。水害に手を焼き、水害を治めてきた福知山だから、「堤防神社」があり、「堤防祭り」があるのだとも聞きました。
ということは、昭和初期から続いている「堤防祭り」とその日に踊るドッコイセには、福知山ならではの風土と歴史と心がぎゅっと詰まっているってことになりますよね。花火があってもなくても、「堤防祭り」は、まさに福知山の夏祭りです。
それならばですが、ドッコイセを主人公に据えて、花火の魅力で盛り立てる方向もありかなと、私はそんな風に思っています。花火大会がコンパクトになれば終了時間も早くなります。花火には子供がおおぜいやってくるでしょうから、その子供たちをドッコイセに合流させる方策が立たないかなあ、とか。
実行委だけにやってくれというのではなくて、みんなで育てる風土がないと、なかなかうまくいかないと思うんですけどね。
「ここからはみんなの責任や」とAさんは言いました。そのときはさほどインパクトを感じなかったのですが、あらためて噛み締めています。
規模じゃなくてやり方が自慢になるような花火大会。協賛企業のイメージアップになるような花火大会。みんなの愛着が集まる花火大会。
堤防の神様が、いま何かを問いかけようとしています。
日本一の花火大会とは
昨夜、大曲花火大会の中継をBS放送で見ました。東北に住んでいる間には何回か行きました。
すべての花火が打ち上げられた後、こっちの岸と向こうの岸で、観客と花火師がペンライトやトーチの光を振り合います。岸と岸の間を、幅400mの雄物川がゆったりと流れ、川の夜空でありがとうの心が交差します。
どんな花火にも勝る感激のシーンです。自分自身でトーチを振った日が思い出され、テレビの中継でさえも自然と涙が出てきます。
その光景をバックに、アナウンサーが解説者の鐙隆千代さんに話を振りました。「今年の夏は花火大会で事故も起きたりしましたが」というような趣旨でした。それに答える鐙隆千代さんは、日本花火鑑賞士会副会長でもあり、秋田魁新報の論説委員でもある人です。
大曲の花火大会が日本一だと言われるけれどそんなことはない。大会の大小で日本一が決まるのではない。それぞれの地域の花火大会がそれぞれの地域の人たちに密着しているのなら、どれもこれも日本一だ。
鐙隆千代さんのコメントはそんな風だったと思います。
地域の人たちに密着している花火大会とはどんな花火大会なのでしょうか。たぶん、その答は、これからの福知山にあると思います。
負けないで、福知山。心からそう願っています。
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