2012-03-25

与謝野町岩滝 由緒あるんですか?

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 やっぱり丹後の町並みは味がありますよねえ、という記事です。
 与謝郡与謝野町岩滝。ここ岩滝では、10年に1度だけ、岩滝大名行列が開催されます。最近の分は去年やってしまいました。
 岩滝。英語でいうたらロック・フォールですね。


丹後が育んだ大工技術

 丹後では風格のある家屋にことかかない。丹後一帯が「重要伝統的建造物群保存地区」でもいいと思えるほどです。そんな指定を受けたら住んでる人がかえってありがた迷惑でしょうが、町並みの風格だけを語ればそれくらいの価値があると思います。

 で、なにゆえ、そんなに立派な家屋が多いのか?ずっと不思議でした。丹後イコール貧しいの図式に合わない事実。そのモヤモヤ感を解消してくれたのが、天橋作事組でした。
 
 先日紹介した「OKiNa」の記事に、天橋作事組の千原さんからコメントをちょうだいしました。それをきっかけに、「天橋作事組とは?」とGoogle検索してみました。このホームページです。

 天橋作事組の活動内容紹介にこんな一文を見つけました。丹後各地の立派な家並み、それにはこのような理由があったんですねえ。えらく勉強になりました。

元来、丹後地域は経済的にもけっして恵まれた環境ではなく、一度家を建てると100~200年間は、何世代にわたって同じ家で保守管理をしながら暮らさなければならないという実惰がありました。しかも、雨が多く多湿で日当たりも悪く、まだ冬は重い雪が積もるという、木造建築物にとっては非常に朽ち果てやすい悪条件の中で、200年の耐久性と機能性を維持することが丹後の大工たちに求められたのです。結果として丹後の大工技術は磨き上げられ、日本有数のレベルを誇るに到ったのです。


由緒ありげな民家

 ここしばらく、与謝野町岩滝に足を運ぶ機会が増えていました。
 なんとも由緒ありげな民家が並んでいます。

 下の写真は、与謝野町役場向かいの民家です。

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 この家の前がちょうどバス亭になっています。雨の日でした。丹海バスが停車しました。

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 下の写真は造り酒屋だったお屋敷です。いまはもう使われていません。場所は岩滝ではなくて男山になります。

 私がしきりにお屋敷の写真を撮っていたら、「どうした?買うつもりか?」と、近所の人から尋ねられました。
 「こんな屋敷、どうしようもない」と、その人は唾棄するが如くに言いました。このまま朽ちていくだけでしょうか。天橋作事組の気持ちがよくわかる出来事でした。
 

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知で遊ぶの意気込み空しく

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 岩滝には、「知遊館」という公共の学習センターがあります。この写真のような建物です。
 「知」と「遊」の好奇心を満たすための公共施設。どんなもんやろ?


 ここには町の図書館もあります。
 貸し出しカウンターの女性に、尋ねました。

 岩滝の町並みは由緒ありげなんですが、どういう由緒なのか分かるような史料はありませんか?

 「え?由緒あるんですか?」と、カウンターの女性は驚いた顔で答えました。「いや、ないんですか?」と私。

 それでも、「郷土資料にあたってみてください」ということで、蔵書棚まで案内してもらいました。地元の人が「由緒あるんですか?」と言うくらいですから、どうなんでしょうねえ。たいした由緒がないのかもしれない。

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 この蔵書はすごいです。全部の蔵書を写そうと思ったらパノラマ写真になりますよ。開いてみたい本ばかりです。

 ところが、図書館と本屋では必ずうんこがしたくなる。落ち着いてられません。知で遊ぶの意気込みも半ばに、図書館を離れました。



おぬしもワルよのう、の世界

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 岩滝もちりめんの重要産地でした。この史実だけならば丹後の他の地域とさほど変わるところがありません。
 異なるのは、豪商の実力です。岩滝の豪商は織り上がった絹織物を売買するだけでは満足できず、丹後のちりめん産業全般の支配者として君臨し、民衆一揆のターゲットにされるところまで昇り詰めていました

 幕末には、
宮津藩の財政を左右するほどの有力者(千賀・小室・糸井)が岩滝に存在したといいます。

 ここで糸井?と思った方はかなりのプロ野球ファン。日ハムの糸井嘉男選手は、ここ岩滝の出身です。

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 岩滝の豪商も、宮津藩も、京都のちりめん資本に対抗すべき立場にありました。京都の大資本は丹後のちりめん機屋の生産品を自分たちだけが買い占めたい。こちらの豪商や藩はそんな独占を許すわけにいかない。
 利害の一致する武士と商人です。「おぬしもワルよのう」の世界も交えながら共闘体制が固められたはずです。その一環だと思いますが、豪商たちは地場産業への支配力をさらに強固なものへと育て上げることができました。

 このような豪商たちは、絹問屋に加えて廻船問屋も営んでいました。岩滝が海に面した地域だったからです。
 東北から生糸を仕入れるにも有利、米をはじめとする生活必需品の運搬でも商いがうるおう。
 都の大商人とビジネス戦を展開できるだけの経営基盤。それを岩滝の豪商に与えたのは、絹以上に海ではなかったのでしょうか。
 加えて、内陸の交通をみても、岩滝と丹後の各拠点地は、さほど高い山を越えずとも往来が可能です。丹後ちりめんの一大産地である加悦との間では野田川の船運も利用されたはずだと思います。

 岩滝という小さな地区に富をぎゅっと凝縮。そのなごりの風がいまも町並みを吹き抜けています。

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ガチャマンの音が聞こえる

 岩滝の町を歩けば、ちりめんを織る音、ガチャマンの音が聞こえてきます。いまもなお現役で稼動する工場は加悦地区よりも多い気がします。

 由緒ありげな町並みのなかにあって、実用一点張りの建物を見かければ、たいていがガチャマンの工場です。屋根の上で、ゴイサギが宮津の町を遠望していました。

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 ゴイサギの視線の先に、昭和初期は汽船場がありました。宮津と岩滝を結ぶ汽船だったといいます。知遊館の図書館で見つけた写真集のなかにこんな写真がありました。
 この写真が撮影された日も、岩滝の町並みから阿蘇海へと、ガチャマンの音が流れていたにちがいありません。

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