2014-12-13

庵(いほり) 滋賀県甲賀市水口町 え?ほんまに2000円でええの!?

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 父親の三周忌がちょうど正午に終わりました。どこかで昼ご飯を食べようということなりました。調べた結果、「いほり」という和食店がよさそうに見えました。ランチが女性に大人気と紹介されています。私を除けば、母親、姉、妻お龍、叔母とみな女性。若くないけど女です。行ってみました。

 

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92歳老母、お寺からだいじにされたいの一心で余生を生きる

 私の生まれ故郷である滋賀県甲賀市水口町というのは寒いところで、空が晴れるほど空気がキリリと冷たくなります。子供の頃から慣れ親しんだ大きなイチョウの木が、無縁仏さんの隣にそびえていました。

 父親の死後、この寒い町で独居の母親は92歳。三周忌の段取りでひとりやきもきしていました。私と姉は、三周忌だからといって何もスペシャルなイベントではないという感覚です。夫を失った立場と老父を失った立場では、どうも気合の入り方が異なるようです。

 その母親、一夜明けた今朝は、昨日は和尚さんが不機嫌だったとえらく気にしています。しかし、昨日の和尚さんを不機嫌と感じるのは母親の考え過ぎです。特別扱いされたい気持ちを坊さんに寄せるから片思いのような気分になるのです。
 坊さんが張り切らなくてはならないほどの立派な三周忌を私がやらなかった。だから、坊さんもそれに見合った対応だった。その解釈でいっこうにかまわないと思います。

 住職をやっている友達が参考になることを言ってました。
 お布施が少なすぎると判断できるケースでは突き返してもいいというのです。現実に突き返すことはないけれど、お寺と檀家との関係とはそういうもんだと彼は言います。
 彼はお布施のことしか言いませんでしたが、たとえば今回の三周忌など、法事にどれくらい熱心かという面でも同じはずです。

 じゃあ、どういう基準で過不足を判断するのかといえば、その檀家の財力だったり、家系の格だったり、寺との付き合いの深さだったり、様々だそうです。ただ、決まり事の如く類型化された判断基準ではないといいます。

 私なりに解釈すれば、お金に余裕のある家庭ほど貢献すべきだという道徳観が、お寺と檀家との間で長く共有されてきたのだと思います。その道徳観に照らし合わせて少ないとか多いとかが判定される。お寺が判定する以上に、檀家自身がこの金額でいいのかと自問自答することのほうが多い。

 けれども、何をどう考えたところで、多ければ多いに越したことがない以外に、行き着く結論はありません。したがって、檀家全体に1円でも多くの気運が生まれるし、見栄を張り合う競争意識も生まれる。金額で安心を買う心理が自然発生的に生じ、その集団心理が檀家寺の運営にひと役買っている。そういったことでしょう。

 その理屈でいけば、父親の高額な年金収入を失って以後の母親は、檀家として格下げ対象です。いや、母親が格下げと考えるのは間違いで、後継ぎである私がどう見られているかです。そして私はこの程度の人格と財力ですから、お寺としてはまったく頼りにならない檀家です。
 それになによりも、私から以降は子供の代も含めて、檀家システム維持に貢献できるライフスタイルを選んでいません。滋賀県を出てしまったわけですし、いまは滋賀県に戻ってきたとはいえ、郷里の水口町に引っ込んでしまえば自分に見合った仕事がありません。

 お寺の意向、あるいは檀家内の人間関係を尊重しながら習俗に縛られて生きる。そういう暮らし方で幸せだったのは父母かぎりです。
 私のそういう姿勢が、自ずとお寺に伝わると思います。
 こうした私の現実が母親への扱いにも反映されるということなんでしょうねえ。

 父親の生前、母親は思うがままにお寺への喜捨をはずんできました。お寺との間で相互にチヤホヤし合う間柄でした。現在も母親は和尚さんに全身全霊でチヤホヤしています。
 ところが、お寺がもっと現実的に今後を判断しているのか、以前ほどの親密さに至りません。それでは満足できないうちの母は、明日から再び、お寺に対して精一杯の努力を繰り返すことでしょう。

 92歳独居の老女の場合、ひとかどの者でいられるといえば檀家としてのステータスくらいなんでしょうが、残念でした、あんたの息子はほかならぬ私です。申し訳ございません。


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水口にもこんないい店ができたか

 さて、昼ご飯の店、「いほり」。漢字で書きますと「庵」です。
 料理の味もいいし店のセンスもいいし、これはよその土地から来た人に違いないとみんなで話していたのですが、店に確かめたら、水口町生まれの立岡正規さんが店主兼調理人でした。

 なによりも驚いたのが値段です。「竹籠ランチ」というのが2,000円で、内容は、小鉢料理、お造り、ハ穀米の炊き込みご飯、うどん、グラタン、コーヒーです。田舎町でもあり、これよりも高い価格設定が難しいのでしょう。

 お造りのマグロがなければちょうど精進料理やなとみんなが言ってました。というのも、食材は野菜主体で、しかも上品な薄味。みんなの嬉しそうな笑顔を見ていますと、いろいろなものをちょっとずつを好む女心は年齢と関係ないんですね。

 いろいろなものをちょっとずつのなかに、多種多様な素材が使ってあります。手がかかってます。小松菜だけに終わらないおひたしですとか、揚げと大根だけではない煮物ですとか。素材のバラエティーがそのまま小さなサプライズになります。
 茶碗蒸しではなくて豆腐入りのグラタン、小さな器で鍋焼き風に見えるうどんといった全体の構成でも、ここまでやってもらえるのかと意表をつかれます。意表をつかれて、それが調理人と客との間に無言のコニュニケーションを生み出します。これで2,000円です。

 「私、うどん、嫌いやねん」と言う叔母に、「そんなこと言わんと、ちょっとだけ食べてみ。おいしいさかいに。嫌やったら残したらええやんか」とみんながすすめます。

 うどんを一本口にした叔母は、「あれ、おいしいやんか、ここのうどんは」と少し驚き顔。終わってみればたいらげていました。それくらいにおいしいうどんでした。


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 滋賀県甲賀市水口町というのは、出身者がけなすのもなんですが、まあ田舎臭いところです。便利なショッピングモールも数あって、甲賀市の中心地に位置づけられているものの、外食に関しては都会度がまったく不足しています。

 その点、「いほり」は、水口町にしてみたらかなり新しいスタイルの和食処だといえます。店内も心地よい和テイストを目指していますし、外食の楽しみを提供しようとするマインドが伝わってきます。こういう店が誕生するのはありがたいことです。

 「いほり」と同程度においしい和食は京都に行けばいくらでもありますが、逆に、京都と同程度においしい和食店が水口町に生まれたことを歓迎すべきです。母親の葬式の後はここにしようかと、ひとり密かに考えておりました。

  ひとつ何よりも残念なことが店の外観。プリミエ箕林というアパートの1階を改造してあるだけに、外観で店の感性を連想することができません。田舎臭い店だと勘違いされてしまいそうです。

 かといって、「いほり」のような和食処を独立家屋で建ててみても、それが絵になる町の景観がありません。どんな店がどこにあっても所詮は田舎臭く見えるのが、水口町です。

 東海道五十三次の宿場町、徳川家直轄の城下町という歴史を有しながら、元の街道筋が廃業だらけの商店街になって以来、もう数十年経ちました。「ええ感じ」のするエリアが皆無です。

 そんな実情を思えば、「いほり」があることだけで嬉しく思っておくのが妥当かもしれません。


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