四天王寺。大阪市天王寺区四天王寺1丁目にあります。
いまから約1400年前の593年、聖徳太子によって創建されたと、『日本書紀』によって言い伝えられています。
五重塔と同じ空にあべのハルカスが見える。それが不釣り合いなのに、とくにこれといった違和感もない。不思議なお寺です。
亀の池と老夫婦
これが、四天王寺名物の亀の池。六時堂というお堂の前、長方形の池だ。
プールの休憩時間みたいに揃って甲羅干しをしている。
漫才コンビの平和ラッパ・日佐丸。
どれくらい子供の頃に大笑いさせてもらったのか、遠すぎる日々で忘れてしまいました。
その二人のネタのなかでも、「天皇寺さんの池には亀がぎょうさんおりましてなあ」というのがとくに人気でした。
天王寺さんの亀に豆をやって「噛めるかぁ?」と尋ねたら、亀が答えて「噛めまんねん、噛めまんねん」。
亀万年のシャレだけなんですけど、みんなが待ちわびる人気ネタでした。さんざん客を笑わせて舞台を去っていく。そのときの決まり文句が「ほな、シャイナラーッ!」。
四天王寺名物、亀の池は、六時堂(重要文化財)の前にあります。そこにはおびただしい数の亀。泳いでる亀、甲羅干しをしている亀。
亀の池を眺めている老夫婦。
旦那さんに少し認知症が入っているのか、奥さんが何度も声をかけながらそばを離れていきます。
あんた、ここで待ってて。私おトイレやけど、すぐ帰ってくるしな。ええね、動いたらあかんで。亀みたいにじっとしといてや。
旦那さんはそれには答えず、
見てみ。ミドリガメばっかりや。イシガメが少ない。
と、外来種の優勢を憂いています。
その後も、外来種優勢に関する独り言をつぶやいていましたが、奥さんの言いつけを守ってその場を一歩も動きませんでした。亀のほうがよっぽど動いていたくらいです。
この老夫婦、亀を見せておけばこの人は動かないということを奥さんが心得ているんだと思います。そして、旦那さんのほうは、ボケるずっと以前から亀を見るのが好きだったんでしょう。
これがお二人の四天王寺ライフの長さではないのか。そう思ったとき、このお寺がどれほど市民生活に食い込んでいるのかを知った気がしました。
バリアフリーのお寺
極楽門に腰掛けて五重塔をスケッチする人がいた。老後の長い時間。四天王寺が過ごし方を与えてくれる。
聖徳太子は偉い人。
このイメージは世間共通で、「エジソンは偉い人、そんなの常識」の常識とはまた別ものです。聖徳太子さんはみんなのために役立ってくれるという人物像がーーーかつて1万円札のシンボルだった歴史もあってかーーーじんわりゆるやかに共有されています。
聖徳太子の人物像と四天王寺のキャラクターとを切り離すことはできません。聖徳太子さんのお寺はみんなのお寺だと、そんな約束はどこにもないというのに、みんながちょっとずつそう思ってもかまわない。そこが聖徳太子の公共性で、その公共性の香りをファブリーズしたような空気が漂っています。
80歳を超えていそうな女性二人。
何年来の友人関係でしょうか。ひとりが木陰のベンチから立ち上がり、飲み物の自動販売機に向かいます。
あんたかて足痛いのに、わるいなあ。
なに言うてるの。あんたのほうがもっと痛いんやろ。
足の痛い二人が連れ立ってここまで来られたのは、歩き疲れる参道も息切れのする階段もないからでしょう。その点でも、バリアフリーのお寺なのです。「診察券なくしてなあ」といった日頃の会話が飛び交っています。
謎の人、聖徳太子 謎の寺、四天王寺
中心伽藍。仁王門から講堂まで、4つの建物が一直線に配置されている。一直線の伽藍配置は四天王寺式と名づけられている。百済を源流とする様式だという。
五重塔と金堂は四方を回廊で囲まれている。その回廊を撮っていたら、すごくきれいな中国人女性が立ち止まってスマホを始めた。
聖徳太子が593年に建立した。『日本書紀』にそう書かれています。四天王寺もこれを踏襲し、ホームページで以下のように述べています。
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。
では、その話にぴったんこ合致する文書とか仏像とか建物がお寺にあるのかというと、まったく何も残っていません。
残っていないのは、現在までに7回も大きな天災・人災をこうむり、そのたびに全焼・全壊、そして再建を繰り返してきたからです。宝物殿でもらったパンフレットは、「こうした被災の結果多くの古文書は焼失」したと述べ、「僅かな史料のみでは全てを明らかにすることは出来ない」と結んでいます。
聖徳太子は古代史最大の謎とされる人物です。歴史学者があれだけ努力しても、いまだに謎が解けていません。聖徳太子の謎が解明できたら古代史全体が変わるといわれるほどです。
その謎の人物とのゆかりを強調してやまない四天王寺なのに、聖徳太子の謎を解明する鍵はうちにないという。それはおかしい。これって、日本全国を巻き込むイライラ材料じゃないでしょうか。
『日本書紀』がそう書いているからうちはそうなんだというのは、自分のことなのに他人任せで、なんか変です。
聖徳太子かどうかは、お寺の権威づけに大きくかかわってくる超重要事項です。これこれこういうわけでという口伝くらいは引き継がれていてもいい。普通は、そういう風に得た話を『日本書紀』が書くという順序です。
ーーーいや、そう考えてはいけないんです。実はまったく別の真実がありましてね。けれども口外無用なんです。もちろん『日本書紀』にもナイショでした。『日本書紀』を前面に打ち出しておくのはカモフラージュなんですよ。
そういうことなら辻褄が合うと思っていましたら、作家の中山一朗さんがとっくにその種の秘話を握っていました。
四天王寺には聖徳太子直筆の預言書が残されているというんですね。門外不出。決して世に出してはいけないという。
それを四天王寺関係者からこっそり教えられた中山さんは、真相解明に動き出しました。
中山さんの取材活動と古代史研究活動は、1991年から7年間。京丹後市の間人(たいざ)や宮津市の籠神社にも行っています。LAST TANGO IN 丹後の私が無視できるはずもありません。
それをまとめ上げた「捜聖記」は2001年に出版されました。
中味はすべてノンフィクションでも外見はフィクションで出版せざるを得なかったと中山さんは言います。本には書かないことを前提の証言が多かった。それでも本にするためには小説で書くしかなかったそうです。
2013年に発行された「聖徳太子 四天王寺の暗号」では、前書きにおいてノンフィクションを宣言し、「捜聖記」発刊以降に知り得た材料を加えて推理をさらに発展させています。
ただし、作家であり怪異譚収集家の中山一朗さんですから、学術的研究者からは軽蔑か反発しか出ないような結論になっています。素人の私たちにしても、あの結論を容易に受容できるものではありません。そこは、中山さんを信用するかしないかで大きく変わります。
けれども、中山さんの本を読んで、突っ込めばあそこまで突っ込めることに私は驚きました。聖徳太子や四天王寺は、切り口次第でこんなに謎めくのか。むしろグロテスクでした。
中山市朗さんの著作2冊。『捜聖記』と『聖徳太子 四天王寺の暗号』。
私に古代史はややこしすぎる
金堂(手前)と五重塔。大阪大空襲でやられた伽藍を、昭和38年に鉄筋コンクリート造りで再建。それぞれの建物の配置は発掘調査結果を踏まえて創建当初のままだという。
中山一朗さんに刺激を受けた私は、この3週間ほど、時間を見つけては四天王寺に足を運び、夜は夜で聖徳太子や日本書紀について勉強する毎日を過ごしていました。
しかし、古代史を研究する学界の見解は、聖徳太子や日本書紀について、大いに割れています。割れすぎ。他人の研究の矛盾を虫眼鏡で探しまくるような対立構造が、確かな史料に恵まれない実態を反映しています。
「和を以って尊しとなす」と聖徳太子さんが言ったそうですが、これは古代史研究にもいえます。ひとりずつが不確かな史料に孤独な戦いを挑むよりも、共同プロジェクトなどで知を結集させたほうが効率的だと思います。
つきあいきれない。元が忍耐強くありません。
古代史の勉強なんかもうやめたくなりました。そうでなくても浮世離れしかけている自分が決定的なアホまでいってしまいます。
それに、もう区切りをつけてもよかったんです。
四天王寺を調べていくうちに、古代大阪のこともいろいろ分かってきました。そしたら、大阪の景色が違って見えるようになりました。
たとえば、天満橋で大川を渡るときも、これは古代の難波堀江、人工の排水路であり運河だったと知ってからは親近感が生まれました。
そんな親近感がなくても、一生懸命に仕事して営業成績を上げれば任務は完遂できるだろうというご意見もあります。
けれども、営業成績を上げるにしても、愛のないセックスは味気ないみたいなもんで、担当エリアというのは単なる市場ではないのです。あてがわれたエリアへの敬愛が生まれてはじめて自分のエリアだと思えるのであって、そのときから地に着いた意欲が芽生えます。
大阪歴史博物館へ 金曜夜は8時まで開館
大阪歴史博物館。難波宮跡と大阪城公園の間に位置する。四角いほうはNHK大阪放送局で、それとくっつきあった10階建ての丸いほうが歴史博物館。大阪城方向がガラス張りになっている。
10階、古代史のフロアーから大阪市の夜景。左側、ビルが何も建っていない場所が見える。そこが難波宮跡。いまは公園になっている。大化の改新は難波宮跡で遂行されたという。
さて、私は、大阪歴史博物館にも行きました。
中央区法円坂。大阪城公園はすぐそこ。法円坂交差点の陸橋を渡れば難波宮跡です。
金曜の夜は8時まで開館でした。ありがとう。
しかも、10階建てのビルに、入館者は自分ひとりだけでした。大阪府民は900万人近いというのに、なんとしたことでしょう。博物館の独り占めは生まれて初めて。いいもんです。
四天王寺境内から発掘された古い軒瓦の展示では、瓦当の文様を根拠に、造営開始を620年頃の出来事だと推定していました。下の写真を見ていただけばお分かりのように、瓦当というのは軒瓦の円いところです。
展示してあった古代の瓦。いちばん右が四天王寺の瓦。枚方市の樟葉で焼かれたという。飛鳥寺金堂、豊浦寺、斑鳩寺(若草伽藍)と同一の鋳型で作られたことが分かっている。
瓦も百済から伝来しました。お寺を建てるためには瓦が必需品でしたから、588年に4人の専門家が呼び寄せられたとのことです。
当時の技法では、瓦当の文様をつけるのに瓦当范という道具が必要でした。瓦用の刻印といえばいいのでしょうが、判子のように文様を彫りこんだ木製の道具です。その瓦当范に粘土を押し付けて粘土に文様をうつす仕組みです。
四天王寺の瓦当文様は、飛鳥寺金堂、豊浦寺、斑鳩寺(若草伽藍)のものと同一であることから、この4つの寺の瓦には同じ瓦当范が使われたことが分かります。
井内潔先生によると、このなかでもっとも早いのは飛鳥寺金堂で、600年に使われたとのことです。その後、同じ瓦当范が、605年に豊浦寺、610年~615年に斑鳩寺、そして620年に四天王寺の順で使われていったと先生は推測しています。
瓦当范は木製ですから、使えば使うだけすり減っていきます。このすり減り方がヒントになるわけで、四天王寺の瓦当文様の出方を観察した先生は、かなり磨耗してからの瓦当范が使われたようだと言います。その観察結果を年代に反映すれば、四天王寺が他の3つの寺よりも早かったとは言えない理屈です。
年代に関しては決して確定的な数値ではないと先生は慎重な姿勢で述べていますが、信頼できる話だなあと思いました。
大阪は古代の国際都市 四天王寺は外交施設?
大阪歴史博物館に展示してあった地図。いまから1500~1600年前の大阪湾は現在の内陸部に大きく食い込んでいた。砂洲で遮られた内側には河内湖があった。5世紀には大阪湾と河内湖を直線的に結ぶ人工河川(難波堀江)が建設された。
歴史博物館の展示は、古代の大阪についても語っていました。
展示パネルを見ると、古墳時代の大阪湾は内陸部に大きく食い込んでいます。平野部には河内湖があって、氾濫にやられっぱなしの地理条件だったことが容易に推測できます。
でも、その当時、このあたりには王朝が成立していたのですから、治水事業が懸命に推し進められたはずです。
同志社大学の名物教授で昨年亡くなった森浩一先生は、治水事業で大量の土が掘られ、その土が古墳を盛り上げるために使われたという見方を残しています。仁徳天皇稜があれだけ巨大な理由はそこにあるというのです。古代大阪の地図を見ながらですと、いまさらながらの如く腑に落ちます。
その大阪が、飛鳥時代には、水運の要として重要な役割を果たします。発展の礎は5世紀に掘られた難波堀江だと思います。河内湖の水を海に流しやすくするこの水路は運河としても機能し、そこに難波津という港もできました。
大阪は、瀬戸内海、北九州、対馬、朝鮮半島を結ぶルートの始発地点でもあり、終着地点でもあり、海外交易の拠点としておのずと重要性を増していきました。
四天王寺が建てられる頃、朝廷の朝鮮外交を一手に担っていたのが難波吉士氏という豪族だったそうです。
加藤謙吉先生は、四天王寺を建てたのはこの難波吉士氏だったとの見解を述べています。朝廷の外交活動を受け持つ豪族が建てた寺という点を重視し、渉外交渉の場としての役割も兼ねていたはずだと言います。外交に関連する場所として半官半民のような性格の寺であったと推察しています。
ただ、加藤先生の説もパーフェクトではありません。難波吉士氏が建てたからといって聖徳太子と無関係だった証しにはならないと、駒沢大の石井公成先生は指摘します。聖徳太子(石井先生は正しく厩戸皇子と言っています)の意向に沿って難波吉士氏が建てた可能性をどう消去する?といった批判です。ごもっともです。
ここでもまた、聖徳太子(厩戸皇子)が実在したのかどうかが問題になります。
石井先生の批判は、聖徳太子(厩戸皇子)が実在して、豪族に命令できる立場にいたことが前提です。そんな人物はいなかったと、そういう証明ができなければ石井先生の納得を得られないことでしょう。
逆に、じゃあまず先に、石井先生がそういう男の実在を証明して下さいヨと突っ込むこともできるわけですが、それでは子供のケンカです。
これが現実です。先生方はご苦労だなあと思います。批判するために他人の論文を読み、批判されるために自分の論文を書いてるみたいなもんです。
仁王像の前で同じポーズをとるアジアからの観光客。四天王寺は海外からの見物客にも人気が高い。外国にも伝わりやすいメッセージを創建当初から発していたのではなかろうか。
この寺には古代史無用
寺なのに西側入り口には鳥居が立っている。真西を向いているから、秋と春の彼岸には、この鳥居の中心に陽が沈む。彼岸の夕日を拝む「日想観」という恒例行事が多くの参拝客を集める。
残念なことに、四天王寺は、天災・人災に幾度も遭遇してきました。信長の石山本願寺攻めでも、大阪冬の陣でも、大阪大空襲でも全焼しています。「創建当初の姿はしのぶべきもない」と、お寺のパンフレット。
四天王寺の境内でもっとも古いとされるのが境内西側に立つ石鳥居(重要文化財)で、これが1294年の再建です。他に、1600年代再建の建造物が、六時堂をはじめいくつか現存します。宝物殿には国宝指定の文書類も残されています。
しかし、史跡の核心ともいえる中心伽藍全体(仁王門・五重塔・金堂・講堂)は昭和38年に建てられた鉄筋コンクリート造りです。飛鳥時代を誇りながらめちゃ新しい。金堂に安置されているご本尊や周りの仏像、仁王門で睨みをきかせる金剛力士像、これらも昭和の作品です。
自分のことが不思議でした。
昭和38年に再建された鉄筋コンクリート製五重塔はじめ、中心伽藍の建物群。
ニセ物だとよく分かっているのに、わりと平気なのはなぜだろう?
ひとつには、よくできていることがあります。心理的抵抗を誘わないようにものすごくよく考えられている。それは間違いない。
でも、それだけか?と考え続けていて、これはやっぱり聖徳太子と無関係ではないと気づきました。
「もし、いま、四天王寺が全焼したとしたら、また再建すべきだと思いますか?」という問いに置き換えることもできるんですけどね。私は再建すべき派です。
聖徳太子は架空の人物だと思ってますが、それとは別に、私は聖徳太子が好きなんでしょうねえ。
私の場合、聖徳太子は善男善女願望のスイッチです。善男善女願望というのは、いい人でいればいい事に恵まれるという無宗教の信仰心みたいなものですから、その自分経的信仰心に聖徳太子はよく合います。
聖徳太子さんかあ。
自分も少しはましな人間になろ。
という殊勝さがどこかで目を覚まして、そういう殊勝な自分がちゃんといるのだからきっといいことがあると、どこかで思う。つまり、聖徳太子の4文字が「夢がかなう」の代名詞としてはたらいてくれる。
四天王寺にいるときの自分を自己分析してみるとこのようなことになります。
そういう自分でいるから、四天王寺はそこそこの場所でいっこうにかまわないというのか・・・ここから先がどうもうまく言えないんですけどね、四天王寺という場所が寺でもいいし、寺みたいでもいいし、寺でなくてもいいし。
少なくとも、鉄筋コンクリートの五重塔が魅力で行くのじゃないことは確かです。
これが京都のお寺だったら、なかなかそうはいかないはずです。
荘厳、壮大、静寂、優雅、幽玄・・・そういう要素が感じ取れないとなかなか満足できません。しかも、歴史に裏打ちされていなければもの足りません。つまり、京都の寺では、いいものを見ていいなと思うわけで、視覚効果が大きなキーを握っています。自分経じゃないからでしょうね。
そう思うと、聖徳太子さんはたいしたもんです。鑑真、空海、最澄、親鸞、法然、日蓮ーーーえらいお坊さんもいます。けれども、万人向けの仕組みは聖徳太子だけです。いや、ほんとに、聖徳太子はうまくできた仕組みなのです。
私は思いました。
この寺には古代史無用。
歴史の深さでわざわざ寺の存在価値を説かなくても、「聖徳太子さんです」だけでけっこうみんなに通じてしまいます。
それゆえ、全焼・全壊・再建をあれだけ繰り返しながらも、四天王寺はくたばることがなかったのだと思います。「聖徳太子さんです」のひとことは、どの時代にも万能なのでしょう。
この寺、いつの時代も現役だなと思いました。
五重塔と同じ空にあべのハルカスが見えました。
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