丹後由良。行政的には宮津市由良ですが、北近畿タンゴ鉄道(KTR)の駅名が丹後由良です。
丹後由良は、丹後のなかでもとりわけ私のお好みエリアです。特徴があれこれ多彩で、何に絞ればいいのか迷います。
丹後由良の特徴は次のようなものです。
1.文人と縁が深い
文人と縁が深いこと自体は、私にはさほど魅力的ではありません。文人を惹きつけ、文人に訴えた何か。空気とでもいうのでしょうか。そこに立ってみないとわからない何かが、私には魅力です。
たとえば、今日の場合、由良が岳の中腹から山頂にかけて山桜が霞み、その反対方向には海。
その海も、ただ広いのではなくて、地形によって見える広さが変化します。太平洋が体育館なら、由良の海は数奇屋造りです。
再び山の方向に目を移せば、目立つ花であるとか、小さな集落であるとか、神社仏閣であるとか、目にとまる何かがあります。
遠近がとてもはっきりした景観。それが丹後由良の特質です。
丹後由良は、浜辺で海と接しています。丹後半島の場合、岩場で海と接するのが海沿いの町の一般的な姿です。
岩場の町が厳しさを漂わせるのに比して、浜辺の町丹後由良は、平坦で穏やかで、ゆったりとしています。
由良岳を主峰とする山塊がいきなり立ち上がる光景には圧迫感も伴いますが、平坦に広がる地形のおかげで、すぐ近くの山を遠望と思えるだけの余裕があります。そして、海を隔ててかすむのは、よその土地の岬や山容。それは真の遠望です。
自分がいるのがこっち。ちょっとあっち。もっとあっち。さらには山の向こう側、岬の向こう側。そういうくっきりした遠と近が丹後由良にはあって、それを感じ取ったときに、人は旅情を誘われます。
丹後由良がたしかに文学的な何かを有していると思う所以です。
森鴎外の「山椒大夫」。安寿と厨子王の哀しい物語の舞台は丹後由良です。
森鴎外の場合、作者自身がすすんで丹後由良を選んだのではなくて、下地になった民話の「さんせう太夫」がたまたまこの地を舞台にしていただけです。したがいまして、宮津市の観光課にはわるいけど、鴎外と丹後由良は無縁です。
「金閣寺」の三島由紀夫は、作中の人物が丹後由良駅に下り立つ場面を描いています。この描写と丹後由良訪問との直接の関連性は知りませんが、1955年の訪問がなければ小説の筋書きにも反映されなかったでしょう。
鴎外に触発された柳田国男は、「山荘太夫考」を執筆しました。丹後由良を訪れたのが明治42年、執筆が大正4年。訪問と「山荘太夫考」との関連性はゼロだと思います。
「山荘太夫考」は丹後由良を深く探求した内容ではなくて、「山荘太夫」の正体解明が主軸です。
歌人の長塚節も丹後由良で歌をよんでいますが、短歌を作る人はよさげなとこならどこでも行きます。ことさら丹後由良との縁を強調せんでもええやろと、私は思います。
歴史家の梅原猛の場合は、京都府全体の歴史を研究する上で、丹後の実地調査を外すことができなかったのだと思います。
宮津の清輝桜や天橋立の玄妙庵も文人と縁が深い。いろいろな文人が逗留しました。それとの違いは、丹後由良の場合は、土地が題材になっていることです。清輝桜や玄妙庵は、題材ではなくて執筆場所です。
由緒ある旅館が文人の逗留場所にされたところで、なんの不思議もありません。ああいう人たちはそういうとこに泊まりたがる。
反面、とくにこれといって何もない丹後由良なのに、文人たちの執筆材料と関連性をもつ。気づいた者だけに見える由緒や風流が丹後由良にはある。その証ではなかろうかと考えています。
丹後由良の海沿いには百人一首の46番を刻んだ石碑があり、百人一首の石碑としては日本で二番目に古いといわれています。とはいえ、日本でいちばん古い石碑がどこなのか、調べてもわかりません。
刻まれた歌は、「由良の門を 渡る舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな」。歌人は曽禰好忠です。「由良の門」は、丹後由良で若狭湾に注ぐ由良川の河口だとされています。
その石碑と並んで、鴎外の「山椒大夫」前文を刻んだ石碑も立っています。
駅の待合室には、丹後由良を訪れた文人墨客が、貝原益軒以下ずらりと顔をそろえています。調べたらこんだけ出てきたという羅列ではなくて、著名人に的を絞って深く紹介したほうが、丹後由良のよさが際立つと思います。
写真 上段:丹後由良駅の掲示 中段:百人一首石碑 下段:山椒大夫の石碑
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