8月16日(木ようび)
ぼくは宮津の花火大会に行きました。
奥さんのお龍さんも行きました。
とてもむし暑かったけれど楽しかったです。
【燈籠は400年、花火は90年】
このイベントを見るたびに、宮津というのは人が来る町なんだなあと、つくづく思います。京都新聞の記事によれば、この日は7万人の観客数に達したそうです。
写真は、当日の6時前。宮津湾に臨むこの場所で、これだけの人がイベントの始まりを待っています。普段の夕暮れどきなら、釣りと散歩の人くらい。あとは、ノラネコとアオサギでしょうか。
宮津商工会議所によりますと、燈籠流しの始まりは約400年前に遡るそうです。その行事に花火が加わったのが、大正13年。ということは、いまから88年前のことになります。
花火が始まった頃、宮津市の人口は29000人を少し超えていました。平成22年度国勢調査結果では19000人ですから、この88年間で1万人も減ったことになります。
昭和22年~30年は36000人を維持していました。そこからみればおよそ60年間で17000人ほど縮小しました。
宮津市は、人口統計上はすたれゆく町です。その流れのなか、こんな立派なイベントがずっと続いてきたことに驚かざるをえません。見栄えのいい花火を打ち上げてくれるスポンサー企業の確保など、地元の方々のご苦労は並大抵のものではなかろうと察します。
イベント会場を歩きながら、宮津は人の来る町でなければならないと、私は思いました。
燈籠流しと花火を組み合わせた幽玄な真夏の行事は、宮津湾の静かな海面、そして波打ち際まで寄れる穏やかな地形を抜きにして成り立ちません。自然条件に支えられた宮津ならではの風情です。
自然条件のみならず、商業が栄えた歴史、旅人を支えた歴史、寺院の多い歴史。そうした要素に根ざす宮津マインドがこのイベントの隠れた動力源ではないかと、私は推測しています。
人口減少や高齢者比率の増大はたしかに宮津市を困らせる問題です。けれども、そんなことで町の値打ちが下がるものではありません。天橋立しかり、燈籠流し花火大会しかり、いいものはいい。
いいものがあるから、宮津に人が来ます。どうかこれからも人の来る町でいてもらいたいと、その思いを新たにしました。
【精霊船に追掛燈籠】
新仏の出た家庭、つまりこの8月に初盆を迎えた家庭が精霊船を流します。
精霊船は燃えながら海面を漂います。燃えるのはわざと火をつてから流すからです。よく燃えれば燃えるほど新仏さんの供養になるとされています。
故人への思いをまだ断ち切れない家族、家族への思いをまだ断ち切れない故人の魂。そのふたつを一気に断ち切らんとすれば、精霊船を勢いよくみごとに燃やす儀式が、やはり必要なのでしょう。
宮津葬祭センターのホームページに精霊船のサンプル写真がありました。この船で157500円というお値段です。今年、宮津葬祭センターは23隻の注文を受けたそうです(京都新聞)。
精霊船を広く取り囲みながら沖へ沖へと流れていくのは、追掛燈籠です。毎年1万個が流されるといいます。
海面に漂う光。盆の里帰りを何度も繰り返してきた多数のベテラン仏たちが未練がましい新仏をリードしているようにも見えます。家族ともっといたくても、死者として戻るべき場所へ戻らなくてはなりません。
お盆明けの労働者たちもよく似た心境ではないでしょうか。
【往きは船、帰りはKTR】
去年は宮津市内まで車で行って、花火大会用の臨時駐車場を利用しました。ところが、路地の細かさが宮津市街の特徴です。帰りの渋滞を抜けるのがひと苦労でした。
今年は、天橋立に車を駐めて、往路は船、復路はKTR(北近畿タンゴ鉄道)を利用しました。下の写真は天橋立→宮津の船内です。
日本一の赤字鉄道といわれて久しいKTRも、この夜ばかりは多くの乗客です。臨時列車を出すために、普段は見たこともない車輌まで投入していました。
お乗りになれないお客様がおられます。お客様にはもう一歩詰めてご乗車のほどお願い申し上げます。
車掌さんがマイクを口に当てて、1年に1度しか言う機会のない社内アナウンス。噛むなよ。
今年のこのやり方は正解でした。渋滞の先頭となっている須津交差点の少し先で国道312号線に合流し、そのまま与謝・天橋立ICまで渋滞知らずでした。
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