体罰はナマハゲ効果やろか?というようなことを考えていました。
桜宮高校の保護者説明会では、厳しく指導してもらうためには体罰もいたしかたないとおっしゃる保護者もおられたそうです
そういうお父さん、お母さん方、こんなアイデアはいかがでしょうか?
息子さんがミスしたら、お母さんが顧問にどつかれる。
本人がどつかれる以上の指導効果やと思いませんか?
体罰に価値を認める当事者たち
さて、体罰と部活の関係(1)では、庄形篤さんの研究論文を半分くらいまで紹介しました。今日は、その続きです。
庄形さんのリサーチ対象となったA高校女子ハンドボール部にも体罰は存在します。庄形さんの聞き取り調査に対して顧問も部員も認めています。
顧問の先生は、体罰について次のような見解を述べています。
「ないと勝てないとは思わない。やらなくて勝てるなら一番良い。でも試合の方が厳しいのに、練習で優しいという状況はあり得ない気はする」
また、次のようにも言っています。
「意図がないことはしない。こいつを今は鍛えたいって思いながらはするけど、わからせる方法がどんな方法かは状況に合わせて何かしらの意図を持ってやる」
けれども、体罰のときに意図を部員に伝えるわけではありません。試合などの結果を見て、あのときの体罰指導がこういう形で現れたかと胸の内で体罰効果を自己評価しているそうです。
庄形さんは、これについて、「意図等を、部員に伝えることはなく、試合等の結果によって体罰の意義を再生産していることが窺えた」と書いています。
では、部員のほうはどう思っているのでしょうか。
部員への聞き取り調査によりますと、同じミスを繰り返す部員、態度の悪い部員、やるべきことをやらなかった部員、顧問を納得させるプレイができなかった部員などが体罰の対象となります。体罰を受ける部員は、みんなが見ているところで殴られたり蹴られたりします。
部員の意見は、「体罰はよくない」から「まあ、体罰もありかな」まで多様です。ただし、聞き取り調査に答えた部員のほとんどが、体罰以降に気持ちが強くなったと異口同音に述べています。
また、体罰を受けた部員たちは、「できていない自分」が原因だったと考えています。
庄形さんは、「とくに限度についての発言が多く見られ、やりすぎることに対しては批判が集中している。しかし、そのなかで体罰になんらかの価値を見出していることも窺えた。否定しながらも同時に肯定しているというのが現状のようである」と書いています。
卒業したOGたちも、体罰を全面的に肯定しているわけではありません。ないほうがいいくらいのことは思っています。けれども、チームや自分が強くなるためには必要といった形で体罰の価値を認めています。
部活が私を強くする
庄形さんのリサーチを読み進むうちに私は思いました。
相手は顧問や部員です。体罰だけを取り上げて深く語れといっても無理難題すぎるのではないでしょうか。
卒業したOGが、現役時代の部誌にこんなことを書いていました。
「今までやってきたことは、どこのチームにも負けている事はひとつもない。苦しいこと、辛いこといっぱい乗り越えてきた。乗り越えたものもどこのチームより大きい」
当時の記載について、庄形さんはいま一度の説明を求めました。そのOGはこう答えました。
「苦しいことは毎朝早くから遅くまで練習や海練。辛いことは、叩かれたり怒鳴られたりしながら耐えてきたこと。どこの学校にも負けてない」
これを見たとき、部活に伴う多様な辛苦を単品ごとに分解するなんて、所詮無理な話ではないかと思いました。
部員にとっては自分の道です。あの辛苦は乗り越えられるけどこの辛苦は乗り越えられないなんて言っておれません。自分の道だけならまだいいけれど、できていない自分のままでは仲間の足を引っ張ることにもなりかねません。
どのような辛苦も乗り越えるしかない。そして、乗り越えようと頑張ること自体が部活です。その辛苦が体罰であれなんであれ、耐えてみせることに価値があります。耐えるべき辛苦というくくりのなかにあれもこれも分け隔てなく収まっているのではないでしょうか。
このことが次の言葉によく現れていると思います。
「体罰だけではないけど、部活を通して精神的にも強くなれた」
体罰もプラシーボ効果か?
実は、庄形さんの文章が、このあたりでは上すべり気味になっています。「体罰の位置づけ」と銘打ちながら、中味は位置づけといえるほどの分析になっていません。当事者たちの感想をまとめただけです。
庄形さんの力不足かと思わないこともありませんが、それよりも部活の当事者たちにそこまでの問題意識がないというのが真の原因でしょう。
当事者たちは庄形さんに聞かれるから体罰について云々しているものの、顧問の解答ですらどこか漠然としています。しっかりした意図をもって体罰を下していると答えながら、その意図を部員には伝えていません。「なぜこんなことになったのか胸によく手を当てて考えてみろ」を常套句にしている顧問像が目に浮かびます。
でも、庄形さんはそんなこと百も承知だったのではないでしょうか。庄形さんが本当に明らかにしたかったのは、体罰にこれといった位置づけが与えられていない実態だったと思います。
これは、病気の治療でいえば、効能効果がはっきりしない薬を患者に出す医者みたいなもんです。
先生、おかげで腹痛がすっかりなくなりました。あの薬は何ですか?
あれは万能薬です。
薬にはプラシーボ効果(偽薬効果)というのがあって、中味が小麦粉だけでも効き目を得られる場合があります。イワシの頭も信心からみたいなもので、薬を飲んだからよくなるはずだという患者の思い込みが予期せぬ効果を生み出します。
これと同じように、体罰だってプラシーボ効果かもしれないのです。
いよいよ庄形さんの論文も核心部分に入ってきます。
A高校女子ハンドボール部の部活当事者にとってさえ存在価値のあやふやな体罰だというのに、なぜ温存されてきたのか。
庄形さんは、部活に根付くロマンティシズムのような要素を鍵として謎解きを進めていきます。(続く)
今回、桜宮高校は、すべての部活動を当面自粛と決めました。バスケ部とバレー部は、市教委の方針で無制限の活動停止処分です。さらに、橋本市長は、体育科の入試募集停止を市教委に提案しています。
オッサンら勝手なことせんといてんか、どつかれてでも強うなりたいねん、スポーツで大学に行かんならんし、スポーツでメシ食わなあかんねん、という生徒たちの声が聞こえてきそうです。
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