丹後検定受験の一助にしたいと、西舞鶴の愛宕山周辺を散策しました。ここにお宮さんとお寺さんが集中しているからです。
【ふたつの城下町】
舞鶴にはふたつの中心街があります。西舞鶴と東舞鶴です。JRにも西舞鶴駅、東舞鶴駅のふたつがあります。
ふたつの中心街どうしはけっこう離れています。西舞鶴駅から東舞鶴駅までタクシーで2000円ちょっと。高速道路を使っても10分程度は運転。地道を走るときなら少なくとも20分間はみておくといった距離です。
よそ者の目で見ますと、西舞鶴と東舞鶴はまるで別の自治体です。キャッチコピーのような言い方をするならば、「戦国武将の城下町西舞鶴、自衛隊の城下町東舞鶴」ですねえ。
西舞鶴は、細川氏や京極氏の城下町でした。東舞鶴は、海上自衛隊の拠点基地です。
東舞鶴には、少しは知られた寺が二つあります。
松尾寺と金剛院です。このふたつの寺にはすでに何度か足を運んでいます。西舞鶴の寺社街は初めてでした。
写真上=松尾寺。西国二十九番札所。本尊は馬頭観音。5月の仏舞が有名。
写真下=金剛院。関西花の寺三番霊場。三重の塔、紅葉、快慶作の仏像で有名。
【まず町並みに喜ぶ】
愛宕山界隈は路地ばかりです。対向車を待たなければ進めないほどの道や、すれ違いさえ無理な一歩通行など、車がなかった時代のまま年月を経た道です。
その路地沿いに、なんとも雰囲気のある商店。それだけで嬉しくなってしまいました。
高野川という川が流れています。川というよりは運河の面持ち。舞鶴は北前船の寄港地でしたから、海との間を荷役の小船が行きかったに違いありません。
西舞鶴にやってきた観光客はなぜ『とれとれセンター』だけを目当てにするんだろう。舞鶴市はなぜこのノスタルジックな雰囲気を売り込まないんだろう。
【桂柱寺のフレンチブルドッグ】
桂林寺は1401年(室町時代)にできたお寺です。1717年に建立されたという山門をくぐります。
目を引いたのは、山裾の斜面にぎっしり並んだ墓石でした。ほとんどが古い墓石です。彫られてあるのか家系の名が判別しにくいくらいです。お盆やお彼岸の墓参りがたいへんだろうと思いました。前後左右の余裕なく並んでいますから、間違えて隣の墓石に手を合わせてしまったり、しゃがんだ途端に後ろの墓石を尻で倒したり。
そして、本堂前で出会ったのがこのフレンチブルドッグ。奥さんにシャンプーしてもらったばかりでした。小さな歩幅で私に近づいてきました。犬の写真は難しいですね。ネコのほうが簡単。
本堂に入ってパノラマ撮影を試みました。それほどたいしたことのない写真になりました。
【神仏を畏れず色町】
朝代神社に向かいます。
小粋な料理店を見つけました。店の名は『さ和い』。
この界隈はかつて色町だったそうです。寺社の集中度をみますと、門前町と参詣道の連続だったはずなのですが、そこに花街とはなかなか粋なもんです。そろばん教室がいまだにあるんですね。
この周辺では朝代神社や円隆寺が代表的な存在ですが、それ以外のお寺やお宮さんにも風情を感じます。
【朝代神社と円隆寺】
朝代神社と円隆寺は隣合わせでした。厳密に言いますと、間に出世稲荷を挟んでの隣合わせです。
出世稲荷と円隆寺では近在の方々が清掃活動中でした。歴史に詳しい男の方がそのなかにおられて、寺の由緒をあれこれ教えてくださいました。その方のお話は舞鶴市の近代にまで及び、都市銀行や証券会社が舞鶴に支店を出していた時代を懐かしんでおられました。
円隆寺でとくに印象的だったのが多宝塔。紅葉の季節になったら、この塔を再訪しようと思っています。
朝代神社の鳥居をくぐって参道を少し進むと、出世稲荷。
写真上:朝代神社本殿
写真中:円隆寺本堂
円隆寺 多宝塔
【車を捨てて城下町】
細川幽斎が築城した田辺城は平城でした。再建されてはいますが、なにせ平城ですから、どこかに天守閣が見えるわけでもありません。それに、私の仕事では、車で走る道筋に城下町らしき面影は残されていません。
けれども、駅前の国道を徒歩で外れれば、そこに愛宕山を囲む寺社群があります。昔ながらの商店街があります。
そういえば、宮津と西舞鶴は似ている。そう思いました。
どちらの町並みも城下町の趣を残しているだけけではなくて、とくに路地裏がよく似て見えるのは、designed by 細川氏という共通のルーツに拠るものでしょうか(いや、京極氏と考えるほうが正しいかな・・・)。双方ともに路地裏ブラブラが楽しい町です。
細川幽斎さんといえば、文化人の一面が強調されがちですが、けっこう現実派だったようです。本能寺の変でも、山崎の戦いでも、幽斎は明智光秀に味方しませんでした。親友関係にあった二人ですよ。しかも、光秀の娘を息子の嫁にもらってるんですよ。
会社の仲間なんか信じたらあかんちゅう教訓でしょうかねえ。一緒になって所長の文句を言うてた仲間のはずやのに、自分が面と向かって所長に歯向かったときには知らん顔しとる。
【京極マリア売り出し中】
で、細川家に嫁いだ光秀の娘といえば、細川ガラシャ。ところが、細川ガラシャと舞鶴の縁はきわめて薄く、史実に基づけば舞鶴に住んだことがありません。嫁入り→宮津→丹後味土野(隠棲)→大阪細川屋敷(死を選ぶ)ということになっています。
それゆえかどうか、舞鶴の観光資源として近頃フィーチャーされ始めたのが京極マリアです。場末の歌手やないです。戦国を生き抜いたキリスト教徒。
妻お龍に聞きましたら、『江』にも登場したそうですね。屋敷を攻められ、これから死に臨まんとする細川ガラシャ。私たちも死にますというお付の者たち。ガラシャはそれを強く制して、彼らの今後を京極マリアに託す。
そのようなシーンだったとお龍が語ってくれました。
京極マリアは、浅井長政のお姉さんです。NHK大河ドラマ『江』でいえば、三姉妹のおばさんにあたります。熱心なキリシタンだったそうです。家康の世になって、舞鶴に移り住みました。移り住んだというよりもキリシタンだから隠れ住んだというほうが適切でしょう。その頃の舞鶴は、マリアの次男京極高知が治めていました。晩年の隠遁の地が泉源寺という場所です。
その泉源寺地区にある智性院というお寺のご住職が京極マリア売り出しに努めています。NPO法人を設立し、キャラクター画像を作り、石像も立てました。キャラクターにつけられた名前は「いのりちゃん」。大震災の年の「いのり」だそうです。
マリアのだんなさんが、どちらかというと運なし能なしの男だったようで、戦国時代の負け組でした。それだけにマリア自身もさほど有名ではありません。
でも、「いのりちゃん」がけっこうかわいいし、近頃のキャラにありがちな不気味さもないので、けっこうブレークしてしまうかもしれませんね。
(上記2画像はhttp://id.japaneseclass.jp/trends/about/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2から借用)
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