2011-09-10

撥雲洞トンネル(宮津市) 篤志家の一念

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 李白の五言絶句、「尋雍尊師隱居」。
 そのなかの二文字がトンネルの名前に使われています。
群峭碧摩天 逍遙不記年
撥雲尋古道 倚石聽流泉
花暖青牛臥 松高白鶴眠
語來江色暮 獨自下寒煙
 赤い文字の一節は「雲を撥(はら)って古い道を尋ねる」という意味だと思います。何をどうすることかよう分からんにしましても、なんかええ感じですね。

 こういうトンネル、ヤマメやイワナを釣りに行きますと避けて通れない場合があります。トンネルによっては背筋がゾクゾクしてえもいわれぬ恐怖心に襲われることがあります。心霊スポットですね。
 けれども、撥雲洞トンネルにはそうした霊気をなにも感じませんでした。向こうまで歩いても平気でした(ほんまは歩きませんでしたが)。

 トンネルが落成したのは明治19年(1886年)でした。当時の万感の思いが「撥雲」の二文字に託されたのだろうと、何も知らないままに想像しています。
 このトンネルは宮津市の栗田岬に位置します。作家の水上勉さんは、紀行文『丹後路』(1975年)のなか、藩政時代の栗田岬を「七曲八嶺」と表現しています。
 小さく突き出た岬という地形は海に落ち込む山裾ですから、だいたいにおいて通行の妨げになりやすいもんです。急登坂も、崖っぷちのへつりもあったことでしょう。
 体力、精神力頼みで越えていた栗田岬にトンネルが開通しました。馬車も通れるようになりました。雲が切れてぱっと視界が開けたような明るい心理状態でこれまでの苦労を振り返れば、「雲を撥いて古き道を尋ぬ」が当たりすぎというほど当たっていたはずです。


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 このトンネル開通までには売間九兵衛(うるまくへい)という人の献身的な努力がありました。私財まで投入し、1879年から1886年まで栗田峠開墾にかかわり続けたといいます。多額の借金をずっと返済し続けたそうです。
 隋道工事は1884年から京都府の公共事業として遂行されました。しかし、府が動き始めるまでは地元の単独事業でした。その先頭に立ち続けたのが売間九兵衛さんでした。


DSC00031 明治42年(1909年)に建てられた「隧道開鑿主唱者売間九兵衛翁之」の石碑。この時点では売間九兵衛さんのことを何も知りませんでした。言うてくれたら手を合わせてきたのに。







 撥雲洞トンネル。幅4.7m、長さ127m。まだまだ現役です。昼間には3分に1台くらいの割合で車が通っていきます。
 このトンネルを抜けた向こう側には宮津市の運動公園があります。競技者の歓喜も落胆も知るトンネルです。


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