2011-09-04

新井崎神社 海ギリギリのパワースポット

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 新井崎は、昔、中国の徐福という人が、秦の始皇帝に命じられて、不老長寿の薬草を探しに旅に出て、漂着した地であると伝えられます。ここ新井一帯は、海岸段丘が発達し、独特の景観を呈しています。(京都府京都の自然200選から引用)

DSC09471 なんでまた、こんな海ギリギリのところに神社を建てたのかと思いました。足下の崖をのぞけばすぐ海です。
 徐福漂着の地だから海沿いだという説明を、にわかには信じがたいなあ。だって、徐福漂着は紀元前3世紀のできごとです。新井崎神社は、早くても998年の創建です。差し引き1200年以上経ってるわけです。ほんまに徐福か?徐福は徐福として、場所が海ギリギリには別の理由があったかもしれないぞ。

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 そこで、この景色に注目しました。ふたつの島。
 誰もが「お!?」と思いそうな眺めです。ひょっこりひょうたん島みたいでしょ。
 左を沓島といい、右を冠島といいます。丹後半島の断崖絶壁から見える島は、このふたつの島をおいて他にありません。つまり、それだけ印象的な風景です。
 ふたつの島影がよくわかるように新井崎神社ではない場所から写した写真です。新井崎神社からもほぼこのようにふたつの島を望むことができます。ふたつの島を望む場所にお宮さんを造る理由があったのではないか?
 この景色を見たら、そう考えますよね。

沓島・冠島 
pic この点につきましては、新井崎神社のすぐ近くに石倉昭垂さんという郷土歴史家が住んでおられまして(まだご存命かどうか知らないのですが)、新井崎神社のことを深く研究されています。
 左が石倉さん。「世界ふしぎ発見!」にも出演されました。あんたがいちばん不思議やとツッコんだらあきませんよ。






 さて、石倉さんが右のサイト「玉造り工房フルタマのヤシロ」でインタビューに応じておられます。


 その内容を要約しますと、

①「徐福」とは渡来人全般への代名詞。数多くの渡来人がやってきた事実が、「徐福」の名を借りて伝説化された。
②丹後の出土品の質と量から、丹後に到着した「徐福さんたち」の数はかなりのものだったと推定できる。
③沓島と冠島が大海原の目印として「徐福さんたち」を導いた。その先に新井崎があった。
④冠や沓は生前に身につけていたもの。死体が消えたとしたら冠や沓が残る。これが島の名前になっている。「戸海仙(しかいせん)」という術を用いれば死後の肉体は仙人に昇華され消え去ると信じられていた。冠島・沓島周囲の岩盤や岩石の組み合わせが、「戸海仙」の施術で仙人化した死者をうまくビジュアル化している。
⑤冠島の老人神社は西向き。新井崎神社は東向き。ふたつの神社が海を挟んで合わせ鏡のように向き合っている。ふたつの神社は夫婦だともいわれている。

 そして、これがいちばん興味のある内容だったのですが、
新井崎神社と冠島と福井県の御神島は、東へ三つ並んだ神様で、秋分と春分の日に三つの神様の連なった延長線上から日が昇る
とおっしゃっています。
 新井崎神社の位置決めに関して、いいかえれば位置の必然性に関して、この天文学的事実の説得力は大きい。
 それにしましても、春分の日の日の出の位置への着目は、古代の測量技術なのか、航海技術なのか、太陽信仰なのか・・・
 やはり海の民の介在を考慮せざるをえないと、私は思います。石倉さんも、「海部(あまべ)氏について知らなければ徐福伝説も深く理解できない」とおっしゃっています。
 新井崎神社が建ったのは998年だったとしても、この場所自体はもっと古くから宗教的に大切なパワースポットだったのではないか。そこに徐福が結びついた、言い換えますと、宗教的に重要な場所と渡来人が結びついた。その理由を知りたいと、好奇心が動きます。


 もう、こうなったら、今年の秋分の日には早起き。日の出を撮影しに行くしかありませんね。そして、石倉昭垂さんにお目通りを願いたい。お元気ならいいですけど、あんなかっこうして出てきたらビックリしまっせ。
 

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