今普甲道という古道があります。
宮津藩主京極高広の命で拓かれた道です。宮津と福知山を結ぶ石畳の道。大江山腹を行きます。参勤交代や巡礼にも利用されました。
【丹後が広がった】
丹後は舞鶴市、宮津市、京丹後市、与謝野町、伊根町の3市2町だとされています。
ところが、福知山市の大江町に、この看板が立っています。福知山市も丹後の一部と考えていいのでしょうか。
この看板の少し先に、元伊勢観光センターがあります。ここで尋ねましたら、大江町はずっと昔から丹後だそうです。
福知山市に吸収される以前の大江町は、加佐郡のなかの大江町でした。713年の丹後国誕生以来、加佐郡は丹後国に属していました。江戸時代も宮津藩の所領でした。歴史でいけば丹後国加佐郡大江町です。福知山市のなかでも、大江だけは丹後なのです。
私は嬉しくなりました。丹後が広がった。大江町を丹後として扱っていいのなら、鬼退治伝説も、元伊勢神社も、毛原の棚田も、このブログのテーマから外れない。
それならばということで、さっそくその足で毛原の棚田を訪れました。希少な棚田を守ろうと、地元のみならず様々なボランティア団体や個人が努力を続けている地区です。今回の普甲峠越えの古道にも関係する場所です。
普甲道には新旧ふたつのルートがあります。江戸時代に拓かれた新ルートは今普甲道と名づけられています。平安時代に拓かれた旧ルートは元普甲道と名づけられています。この旧ルートは毛原に下りてきます。
【毛原の棚田】
稲穂が実った棚田を陰影に欠ける日中の太陽光で撮影しても傾斜や畦がくっきりしません。毛原には600枚の棚田があるといいます。日本の棚田100選のひとつだそうです。
棚田オーナー制度、農業体験、ワークショップなど、棚田維持を目指して人力確保戦術が展開されています。詳しくは、このホームページをごらんください。
元普甲道を説明する看板(コスモスを添えて)。『今昔物語』や『沙石集』には元普甲道を舞台にした物語が収められていると記載されています。
その時代を考えますと、和泉式部が丹後守である藤原保昌の後妻さんになったときにも元普甲峠を通ったのでしょうか。和泉式部といいますと、紫式部からけしからんと問題視された女性ですねえ。男とつきあいすぎだと咎められた。
黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき
ええやんか。かわいい女心やありませんか。言われてみたいわ。ふと足もとに目をやるとこんな可憐な花が咲いています。秋やなあ・・・花の名は知りません。
和泉式部の娘さんが小式部内侍です。
大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天橋立
なのですが、いまは天国にいる私のおじいちゃんは、「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみずかかのキンタマ」と孫たちに教え込んでおばあちゃんからいつも叱られてました。アホや。その血筋ですからね、私は。
毛原で見つけました。実に端正で由緒正しそうなお屋敷。この空。絵葉書か。いや、秋ですねん。
毛原を起点に元普甲道を峠まで歩いてみますなんて、そんなしんどいことは避けました。すんません。元普甲道ではなくて、今普甲道を楽に歩ける場所まで、車で移動しました。
【今普甲道】
今普甲道を自分の足で歩くのなら大江山スキー場あたりがお手軽と聞きました。厳密に言えば、大江山バンガロー村に入ってから歩き始めます。「大江山の家バンガロー村」というのがあってややこしいのですが、そちらではないのでご留意ください。カメラのバッテリーが切れて、iphoneで急場しのぎ。
バンガロー村を背後に見ながらスキー場の緩斜面を登ります。その緩斜面の頂点に標識が立っているから分かると、バンガロー村管理事務所で教わりました。
これが、その標識です。今普甲道とは記されていません。これは今普甲道ルート全域を通じて共通です。今普甲道はとこどころで舗装された車道に分断されますが、「宮津街道」と記された標識が立っている地点を探して車道を外れれば再び古道に戻ります。
スキー場の斜面を外れてすぐ、中央に石畳が延びる山道になります。この石畳こそが今普甲道の証です。
石畳の上を歩き続けたいのはやまやまですが、苔の薄い膜で滑りやすい上に、表面が凸凹しています。予想したよりも歩きにくいものです。
スキー場から歩き始めて3分もたたないうちに、航空管制塔へと向かう車道に出会います。車道を登り方向に1分ほど歩きますと、再び古道との分岐点が現れます。
その分岐点からの眺望がすばらしい。
再び古道に歩を進めますと、直立する宮津大杉の森。「爪割り水」、「関所跡」、「千年杉」など、昔の往来風景をイメージできそうな場所も出てきます。
古道はこのまま中の茶屋という集落まで下っていきます。健脚家なら往復も辞さないところでしょうが、私は「千年杉」という水飲み場で引き返しました。
【鬼の岩屋から丹後を望む】
鬼の岩屋まで行かずとも、航空管制等から100mほど歩いたところに展望広場とでもいうべき場所があります。ここから見下ろす丹後半島全体は、少し大げさにいえば、遊覧飛行のようです。山の景色の向こう側をよく見つめないとわからない。空との境界を見誤る海。
右方向に首を振れば、舞鶴市の博打崎や青葉山がかすんでいます。そのまた遠くでさらにかすむのは、福井県の連峰か石川県の連峰か。
左方向に上半身ごと回せば、兵庫県との境を形成する山並み。その長い山裾が加悦町にまで下がっています。
新たな発見は、網野の海沿いに見えるふたつの古墳でした。
わずかな平野部にこんもりと盛り上がった形状は、明らかにランドマークです。そこが網野の海浜だと分かるのですから。もし古墳を海から眺めたらどうか。ランドマークとしての役割をさらにもっと果たすに違いありません。古代の統治者が海沿いを選んで古墳を盛り上げさせた理由のひとつではないのでしょうか。
見下ろす丹後半島。私の安いデジカメでは、肉眼で見たほどにはクッキリと写ってくれません。「行ってみたいな」とみなさんに思わせたい、旅心を刺激したいのに、いい写真にならない。とても残念です。もうそろそろデジカメ一眼を持つべきでしょうか。「趣味なら本気で」とキャノンも言ってます。
空気は秋。ススキが風になびきつつ秋らしい振る舞いを見せています。気温はおそらく20度くらいでしょう。陽射しだけが夏のまま。陽射しの片思いです。
鬼の岩屋 鬼の岩屋にはもぐりこみませんでした。なんだか気色の悪い洞窟でした。
少しばかり卑猥な面持ちのある入り口でもありました。
鬼退治伝説は、源頼光、麻呂子親王、日子坐王の3人物それぞれに物語が作られています。いずれも中央政権の人物です。中央政権に敵対するものは悪者ですから、悪い奴の象徴として鬼が持ち出された。
元伊勢観光センターの解説員の方はそう説明されました。
その鬼というのは丹後に基盤をもつ大きな勢力だったと解釈できる。解説員の方はそうおっしゃいます。大陸からの先進技術、漁業、農業、そして大江山では鉱山といった風に、丹後は豊かな地域でした。その豊かな地域を、経済的にも政治的にも、中央政権は支配下におきたかった。
中央政権による丹後への侵略行動が寓話化されて鬼退治伝説になったのではないかと、解説員の方は想定しておられます。
【岩戸という小集落】
平日4本、日祝2本のマイクロバス。岩戸という小さな集落です。今普甲道の宮津側起点です。
高校生がひとりいたかなあと運転手さん。普段は自転車で宮高(宮津高校)へ通って、雨の日だけバスを利用するそうです。あとは老人客ばかり。岩戸の現役住民はわずかに3軒だそうです。それでもバスを運行し続けるのは、病院や買い物に行く手段が他にないため。
そんな零細集落にあって、このお屋敷は上宮津でいちばんの資産家だとか。見ていてあきないお屋敷です。あまり写真を撮影していますと、押し入り目当ての下調べと思われそうですね。
【盛林寺---光秀の首がここに?】
光秀の首が盛林寺にあるという逸話に一定の現実味が伴うのは、娘の玉(細川ガラシャ)が宮津にいたからです。
山門を出たときに、ちょうど北近畿タンゴ鉄道(KTR)が目の前を通過していきました。1時間に1本程度の路線ですから、いつも予期せぬときに現れます。来た!と気づいてすぐカメラを出さないと間に合いません。
【古道に寄り添う現代の道】
元普甲道は中世の道。今普甲道は江戸の道。しかし、時代が変われども、宮津の背後に連なる大江山連峰という地理的条件は変わりません。
なんであれ、山を越えていかねばならぬ。現代の普甲道は、北近畿タンゴ鉄道の宮福線(1988年開通)であり、京都縦貫自動車道綾部宮津道路(1994年開通)であり、そして府道9号線です。徒歩で往来した普甲道に寄り添うようにして現代の3ルートが山を越えます。
府道9号線は、やがて宮津市街地へと入り、そこで京街道という名前に変わります。京街道の行き着く先に海があります。福知山から宮津の中心街まで行くのなら、府道9号線がいちばん早いと思います。
また予期せぬ間合いでKTRが来ました。偶然にも京都縦貫道とKTRの並走区間でした。なんであれ山を越えねばならぬ。
初秋の丹後です。
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