どの時代にも勝ち組はいるもんですね。
大雲記念館は、別名を旧平野家邸ともいいます。平野家は江戸時代の由良川水運の管理責任を負っていました。その平野家が明治時代に建てたのがこのお屋敷です。同家は1900年代に平野銀行という地方銀行を開設するまでに至りました。京都銀行の沿革のなかには平野銀行の名前も見えますから、京都銀行が由良川なら平野銀行は小さな支流の一本だったような間柄です。
このお屋敷の所在地を有路(ありじ)といいます。昔はここに有路港と呼ばれる船着場があったそうです。
その昔、有路は由良川の流れが大きく湾曲する地点でした。川の湾曲部では、長い年月をかけて流れの外側に土砂の堆積による平地が形成されていきます。有路の場合、この地形が港として好都合だったのだと思います。
ただし、平野家が独自でなんとか水運みたいな運送業を営んでいたとする記録はありません。史実は酒造業や製糸業を挙げています。その生業とはべつに、平野家は田辺藩の舟改め役だったそうです。
私は現在の由良川しか知りません。いまの由良川は上流部にダムがいくつもありますから、水位が人工的に調節されています。流れの速さも人工的な水位調節の影響下にあります。その由良川を眺めながら船が行き交う昔の風景を思い描くのはとても難しいことです。もっと運河的な穏やかさを持ち合わせていないと船の航行に不都合な気がします。それだけに、平野家が河川水運に重要な役割を担っていたと聞かされても、「はあ、そんなもんですか」と思うだけです。
そんな理由もあって、このお屋敷を訪ねてからずっと、たいしたブログネタにはならないなと思ってきました。自分が楽しくもない話題を他人におもしろく伝えることはできません。けれども、丹後検定受験を決心して歴史の本を読み出してから、少しは由良川水運の知識も頭に入りまして、いままでよりはましなネタになってくれそうな気持ちになりました。
昔の河川交通の重要性を理解するためには想像力が不可欠です。車社会の感覚をきれいさっぱり捨て去り、人馬による荷役の不便さに思いを馳せなくてはなりません。その不便さとの対比で河川水運の合理性を納得できないことには、なにもわざわざ川に頼らなくてもいいのにという疑問が消えません。
船は大量輸送の手段であったはずですが、いったいどれくらいの積載が可能だったのでしょうか。
清水次郎長伝の森石松、「寿司食いねえ、酒飲みねえ」は淀川の三十石船ですが、これが30人乗りくらいだったそうです。高瀬船の復元模型を京都市内の高瀬川で見ますと、米俵60kgをたくさん積んでいます。正しく言えば、小河川用の高瀬舟ですら、積載量は上り15石下り7.5石(1石は米2.5俵=150kg)だったそうです。利根川の高瀬舟は帆も立てる大型船で500石の積載量だったといいます。人馬が舟の運搬効率に勝てるはずもないことが容易に推測できます。
平野家とゆかりのふかい有路の船着場は、日本海と由良川の水運を結ぶ中継基地でした。由良川河口から有路までは水深のあるゆったりとした流れですので、深い喫水構造をもった大型船も航行可能だったそうです。おそらくは帆を上げ風の推進力を受け、流れを遡ったのでしょう。海の船がそのままやってきたのかもしれません。
しかし、上流部へ進むほど川の水深が浅くなるわけで、その変化に連れて平型の船底をもった小型船の優位性が際立ってきます。川の地形変化に合わせて大型船から機動力の高い小型船へと荷を積み替える必要性が生まれます。そのための場所が有路だったと、どこかの本で読んだ覚えがあります。
それに、水運と水運を結ぶばかりではなくて、有路は水運と陸運の中継基地機能も有していたはずです。事実、ここで船から荷を下ろして山越えで兵庫県の加古川上流まで運べばあとは下りで一気に大阪まで行けてしまうーーーそんな計画が江戸時代にすでに立てられていたそうです。このルートが確立すれば大阪まで5~6日だと見積もられていました。
と、これくらいまでリアリティーを演出してからでないと、平野家を由良川水運のカオとして位置づけたくてもどうもリアリティーが不足してしまいます。このリアリティー抜きにして大雲記念館のおもしろさもなしといって過言ではありません。
それでは、お屋敷の内部に入ってみます。
これが客間です。ギヤマンガラスのでこぼこ越しに庭園が見えます。学芸員の方が、「京都に対する田舎のコンプレックスがあってこんな庭園をこしらえたんじゃないでしょうか」とおっしゃっていました。
客を通す部屋だけに、金にいとめをつけていません。床の間と畳の境いには神代杉(じんだいすぎ)が用いられています。なんでも火山灰に1000年近く埋もれて腐ることなく半化石化した杉のことをいうそうです。
なんで階段をこんなにケチっとるねん?と思いながら二階へ上がっていきました。
二階へあがりますと、まず金屏風のある部屋。お茶の会のグループがときどきこの部屋で集まりを開くそうです。大雲記念館は京都府教育委員会指定の有形文化財ですので、一般の利用も可能です。
別の部屋へ入りますと、明の時代の絵画で装丁された天袋がありました。この天袋にかけた費用だけで家一軒が楽に建つくらいだそうです。
こちらは吹き抜け。台所を見下ろします。屋根を支える建材の組み方が西洋式だそうです。このスペースはオリジナルの姿ではありません。絵などの作品展示会にも利用できるように改造されています。屋根の頂点にある空気抜きの穴から鳥が迷い込んできてお屋敷内に糞をしまくったこともあるそうです。
こちらが台所です。釜戸から伸びるのはレンガの煙突。ホフマン窯で焼かれたレンガだとのことです。一度この釜戸で実際に火を炊いてレンガの煙突から煙が昇るところを見てみたい。学芸員の方はそうおっしゃっていました。ついでにサンタさんの服着て下りてきたらどうですか?と言いかけてやめときました。
台所の隣には物置きともいえる部屋があって、そこに平野家の歴史を語る資料が展示されています。私がいちばんおもしろかったのは、江戸の幕府から査察隊がやってきたときの資料。いまでいえば国税庁による由良川水運の実態調査ですね。
福知山の商人たちまでもが、査察隊の日程・行程を調べ上げて失礼のない対応に右往左往したという記録があります。査察にこられてあわてるのはどこかにうしろめたい思いがあるからにちがいありません。査察隊の方々に何を召し上がっていただくかということで、朝昼晩の三食にわたってこんな献立俵まで作られていました。場所が川だけに魚心あれば水心ですね。
福知山のうまいもん市でこの献立をそのままやってみようかというアイデアが鬼力亭にあったようですが、実行に移されたのでしょうか。
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