2011-07-15

与謝蕪村の夏 与謝野郡加悦町



 夏河を越すうれしさよ手に草履
  与謝蕪村が加悦町で詠んだ一句です。「丹波の加悦といふところにて」と前書きがついています。「丹波」というのは蕪村の思い違いだそうです。加悦はいまもむかしも丹後ですから。



 蕪村は1700年代の俳人です。400年も前の加悦がどのような風景であったのか。川がどのように流れていたのか。いまの加悦町を何回通り抜けても、この夏の句にふさわしい場所を見つけることができません。
 そればらばと、加悦町立江山(こうざん)文庫の学芸員さんのお力を借りることにしました。


 蕪村はどこで川を渡ったのでしょうか?


 こちらが江山文庫です。加悦の里から夏の空へと立ち上がる大江山連峰。その裾野にある俳諧の資料展示館です。


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 加悦町は俳人にゆかりの深い土地です。まず、与謝野蕪村のお母さんが加悦の出身だといわれています。名前は谷口げんだそうです。
 谷口サ~ン、谷口げんサ~ン
 どこかの病院の待合室で呼ばれそうな名前ですね。蕪村は宮津の見性寺に3年間滞在して、母親の郷里である加悦を歩いています。そんななかで生まれたのが「夏河を越すうれしさよ手に草履」。この句が生まれたときすでに母親は他界していました。ゆえに、この句は蕪村の郷愁だとする解釈もありますね。


 蕪村の足跡をたどる後世の俳人たちも加悦を訪れました。その代表格が河東碧梧桐。
 江山文庫には河東碧梧桐の句も展示されていました。
ひる寝て親ゆびがはれてしまひ
 ただの痛風やないんけ? 俳句にせんでも普通に言うたらええやないか。伝統的な五七五を崩してまで俳句にするネタか。そう思います。


 そして、与謝野鉄幹も加悦に縁の深いひとりです。父親は加悦在住で与謝野礼厳(れいごん)という住職でした。鉄幹さんも奥さんの晶子さんも、やはり加悦を訪れて作品を残しています。


 鉄幹:帰り来て家は無けれど与謝郡(よさごおり)ゆく方はみる父のふるさと
 晶子:大江山ただ見る房の色ながら与謝の入り江をおほはんに過ぐ


 鉄幹さんなら、私は「人を恋ふる歌」が好きですねえ。
妻をめとらば才たけて、みめ美わしく情ある
友をえらばば書を読みて、六分の侠気四分の熱
 
 加悦ではアマチュアの俳人、歌人も多いといわれています。人ばかりやないですよ。加悦ではコメまでがこれですからね。コシヒカリに「歌人」というブランド名。


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 話が横道にそれっぱなし。
 蕪村がどこで夏の川を渡ったのか。これでした。


 加悦町立江山文庫の学芸員さんによりますと、場所についてはわからない。
 加悦であるかぎりは野田川のどこかだと考えるのが普通だが、しかし、蕪村の時代の野田川は舟が往来できるくらいの水深と川幅だった。人間が歩いて渡れなかっただろうという説もある。
 う~ん、野田川でいいと私は思います。
 由良川だって、浅瀬の部分にきたら人が川を歩いて舟を引いたという史実も残っています。由良川よりもはるかに流程も集水面積も小さい野田川ですから、舟が往き来したというだけで人が歩けないとするのは早計にすぎないでしょうか。ましてや夏の川の水位です。源頭の大江山はさほど積雪の多い山ではありませんから、川の夏枯れは容易に起こりえます。

 といったことで、私なら野田川のどの場所を裸足で渡りたいか。それを目安に選んだのが冒頭の写真です。2005年の台風23号以降、丹後の多くの川が風情のない面持ちに変わってしまいました。野田川も例外ではありません。両岸が護岸で固められて川底は砂だらけ。そんななか、SL公園の下流部にようやくこんな流れを見つけました。


 江山文庫のホームページを見ますと、この句の解釈として「流れに触れる足の冷たさはとても気持ちよく」とあります。自分で実際に裸足で川を歩いたことのない人の解釈でしょう。(URL=http://www.kyt-net.ne.jp/kozan/utahaiku.html#6)
 夏ですから、着物を濡らさずに歩ける程度の深さなら水の冷たさはあまり印象的ではないはずです。それよりも、川底の石の不安定さ、足の裏に食い込む砂利の痛さ、石の表面についた苔で滑って転びそうな危うさ。バランスを上手にとりながらの渡渉です。でも転んだってどうってことはない。夏ですから。だからこそ「うれしさ」であり、両手を広げてやじろべえのようにバランスをとるための「草履」ではなかったのかと私は考えます。


 

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