2011-08-29
浦嶋神社(宇良神社) 宮司さんお留守で物語聞けず
丹後と対馬暖流の引き裂きがたい間柄を訪ねる1day trip。
由良のミカン畑の次に、伊根町本庄の浦嶋神社(宇良神社)にやってまいりました。
【へその下】
ここにまつられておりますのは、世にいう浦島太郎。
そういえば、学生時代、酒を浴びて歌いました。浦島太郎の替え歌で「へその下」。さ、ご一緒に。
むかし むかし へその下
助けた亀に へその下
龍宮城へ へその下
絵にも描けない へその下
以下、この要領で、歌詞に「へその下」をくっつけていけばいいだけの歌です。
【異国の影響を受けた伝説?】
雄略天皇の478年7月7日、亀姫さまに逆ナンされた浦嶋子(うらのしまこ)。常世の国である蓬莱山へと姿を消し、再びこの地に戻ってきたのは淳和天皇の825年。なんと347年間も常世の国に滞在していたことになります。月日の経つのもへその下。
この物語が、8世紀の丹後風土記、日本書紀、万葉集などにも記載されていることから、丹後の浦嶋伝説が日本最古のものだと考えられています。ただし、計算が合いません。浦嶋子は825年まで常世の国にいたというのに、どうして8世紀(700~799年)の書物に伝説が登場してしまうのか。
この浦嶋神社の創建も浦嶋子の享年である825年とされていて、浦嶋子を筒川大明神として祀ったのが創始だそうです。(出典はhttp://www.genbu.net/data/tango/ura_title.htm)
それらを踏まえますと、神社の都合にあわせた浦嶋伝説がひとつ、それとは別に、もっと古くから語り継がれた浦嶋伝説がひとつ。浦嶋伝説にふたつのバージョンを想定しないとなりません。
となれば、すでに古くから存在していた伝説を神社が流用したと考えるのが妥当でしょう。歌でいうならカバー曲ですな。カバー曲ですから、編曲はちがうかもしれんけど歌詞は同じ。神社の浦嶋伝説からオリジナルバージョンを窺い知る。そういうことではないかと思います。
この神社の宝物資料館には「浦嶋縁起絵巻」が保存されています。この絵巻が浦嶋子の不思議体験を絵に表しています。常世の国である蓬莱山は中国の宮廷の如くに描かれていると聞きました。
さらには、浦嶋子を逆ナンした常世の国の姫。亀に変身して浦嶋子の釣り竿にかかるのですが、「浦嶋縁起絵巻」は亀の甲羅を五色に塗り分けているそうです。
私の好奇心は、まるで浦嶋子のようにこの時代を離れ、丹後の古代へと、時空旅行を始めます。
対馬暖流にのって丹後に渡来した大陸の人々(いや、もっと南方からも海流が人を運んできたかもしれない)。
常世の国蓬莱山で象徴される不老不死への憧れ。中国の神仙思想。
逆ナンの祖、亀姫。亀甲が五色に塗り分けられている点を中国の陰陽五行論に通じるとする解釈もある。
そして、「水の文化史」の著者である富山和子さんによれば、浦嶋伝説に似た昔話は、洞庭湖周辺をはじめ中国各地に伝わっているという。
浦嶋伝説は空想の産物です。空想は中国の知に基づいています。その空想に含まれる価値観を共有できる人たちでなければ、「なんや、それ。しょうもない」で終わってしまっていたのではないでしょうか。丹後が早くから中国文化の影響下にあったからこそ浦嶋伝説も広く受け入れられた。そう考えてもいいのではないでしょうか。
そしてもうひとつ。どこか遠い未知の場所へ出かけてまた戻ってくるという想定が、当時の人々にはそれほど非現実的ではなかったのかもしれません。すなわち、航海術に長けた海の民。対馬暖流の民です。
日本海側が古代日本の先進社会であったと、富山和子さんをはじめ多くの学者がすでに唱えています。それらの本を読んでいくらでも勉強することはできますが、浦嶋神社のような場所に自分の足で立って感覚的にも納得したい。
ひょっとして丹後ってすごくね?
これです。
【宮司はお留守】
残念ながら宮司さんがお留守でした。
社務所の離れのような古びた建物。廊下も部屋も建具全開で風を入れながら、三十路とおぼしき女性がひとり。座卓に布を広げ、手縫いの裁縫をしています。床の間には神事に用いる火焔太鼓。推理ドラマ金田一耕助シリーズ「浦嶋の女」といった風情。
建物も古ければ、手縫いの光景も古い。自分はいまからこの女性に逆ナンされて蓬莱山へ連れて行かれるのではないか・・・なんてことは思いませんでした。神社の奥さんがカーテンを縫っているくらいに考えて、声をかけました。
すんません、浦島さんの縁起絵巻、見せてもらえませんか。
あ、絵巻。あ、宮司さんが。さっきどこかへ。ちょっと待ってください。聞いてきます。
女性はえらくあわてた様子でサンダルを履いて鳥居の方向へと小走りを始めました。このブログに登場するゆるキャラでいえば、毛玉しろみの人の好さとミカエル須磨のあたふた性格をまぜこぜにしたような女性です。
あれ、お宮さんのご家族ではなかったんですか?
はい、あの、近所なんです。いま、ちょっと裁縫だけ。
女性が急ぐ先には、宮司さんのほんとの奥さん(と、私が思っただけですが)。自転車を止めた誰かと立ち話をしています。
事情を知った奥さんがこちらに近づいてきてくれました。
宮司さんがいないと「浦嶋縁起絵巻」はただの古い絵だそうです。口伝で受け継がれた縁起物語を宮司さんが語り、絵巻に命を吹き込む。ついさっき団体客相手に口伝を披露し終えた宮司さん、用事のために外出中だとか。「文字にしてなくて、口伝ですから、宮司さんがおられないと他の者では」と奥さん。
そうですか。また来ますわ。本庄診療所とかのついでに。
口伝か・・・たぶん秘伝の口伝。ビデオ撮らせてもらえないな。Youtubeとかにアップしたら口伝を暗記できてしまうしな。
私は話を変えて奥さんに尋ねました。
三島一声さんのご実家はどちらでしょうか?
三島一声というのは、この土地出身の歌手。昭和8年に「東京音頭」を大ヒットさせた人です。本当の姓を三野(みつの)といいます。この三野家が、浦嶋子の血を千年以上に亘って受け継いできた家系だとされています。
歌手三島一声は、三野家本家の長男でした。つまり、浦島太郎の直系、明治22年に生まれた浦嶋子だったのです。
【陰鬱な浜】
三浦一声さんの実家は、本庄浜にあると聞いて海辺に向かいました。
1971年にNHK「新日本紀行 丹後浦島伝説」には、芸能界引退後の三島一声さんご本人が出演なさっています(NHKオンデマンドで視聴できます)。晩年生活といってもいいお年でした。
三島さんの歌手デビューは47歳。異例の遅咲きです。それもそのはず、若い時代には外国を放浪しぱなっしだったからです。番組のなか、そんな自分自身について、「浦島太郎の血が騒いだのだ」と、三島さんは語っています。
本庄浜は、ひとことでいうと気色の悪い浜でした。山にしても川にしても海にしても、陽の場所と陰の場所があります。本庄浜は陰でした。
景色を見たとたん、なんだかいや~な気持ちがしました。雲行きが怪しくなりかけた空のせいかもしれません。丹後の海でこんな気持ちになったのは初めてです。
どの方向からカメラを向けても絵になりにくい景色。丹後の海は、どこをどう切り取ってもそこそこサマになるというのに、本庄浜だけはどうにも好きになれません。こういう場所で写真を撮影しますと、心霊写真が映ってしまうこともあります。
陰鬱な気分のなか、一本の紅の葉が集落をぱっと明るくしていました。その花の家が、おそらく三島一声さんのご実家ではないかと思いました。
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