田舎町にもおいしいランチ。今回は「金時」。
福知山市内でもクマが出た。拝師の民家に侵入した。由良川の河川敷にも出た。三段池にも出た。
店内のそんな話題に加わりながら肉うどんを食べている。
ここは広小路、「金時」。明治39年(1906年)創業の食堂だ。
創業以来、いまもなお、いちばん注文が多いのはきつねうどん。次に巻き寿司。女将さんからそう聞いた。
巻き寿司は女将さんが巻いてくれる。注文に合わせて一本ずつ巻く。日替わり定食の巻き寿司でもこれは変わらない。その手つきがあまりに鮮やかで、そして素早くて、カメラを構えながらも撮影のタイミングを逸してしまった。
女将さんの生まれはおそらく昭和15年(1940年)前後だ。なぜなら、昭和28年の大水害のときに中学生だったというから。
水害の思い出が呼び水となって、女将さんが昔を語り始めてくれた。前回の「福知山のランチタイム」で「自由軒」を書いて以来、栄えていた頃の福知山に私は興味津々だ。金時でレトロ福知山を知ることになるとは、なんてありがたい成り行きだろう。ばってらを食べに来た近所の常連さんも、同じ時代をこの広小路で過ごしてきたひとりだ。
歩兵第20聯隊で商店街が賑わった戦前、戦中の話。
まずは銭湯に入ってから下駄を鳴らして音無瀬橋を渡り、猪崎の遊郭に通った男たちの話。
遊女たちの着物需要で襟久という呉服店が大繁盛した話。
由良川の氾濫で昭和20年、28年、34年と広小路が大水害に襲われ、みんなが大屋根の上に避難してそこでご飯まで食べていたという話。
治水に刃向かう由良川も、普段は飲みたくなるくらいに水が透明で、子供たちが水遊びできるくらいに遠浅で、そしてテナガエビもコイもウナギもよく捕れたという話。
福知山は近畿有数の鉄道基地で、国鉄職員たちは店へ来てから給料袋を破って飲み食いしたという話。
ミツマルストアーは実は昔はミツマル百貨店で、屋上には遊園地まであったという話。
中島肉店が三階建てで二階はすき焼き店だったという話。
丹波、丹後、但馬で商店街と呼べる場所は福知山にしか存在せず、柏原や氷上からも買い物客が押し寄せていたという話。
広小路だけで映画館が3軒もあって、大川橋蔵、中村錦之助、片岡千恵蔵、市川雷蔵といったスターの映画を2本立て、3本立で観た話。
福知に行こうという言い方があった。福知山では山がついて田舎臭く、当時のイメージに合わなかった。
「町の子だったんですね」
女将さんも、カウンターでバッテラを食べ終えた常連さんも、我が意を得たりのはみかみを見せた。
憶え切れないくらい、思い出せないくらいの昔話を女将さんから教わった。女将さんの思い出話をこんなに端折ってしまうのはまことに心苦しい。
「その窓ガラス越しに」と、女将さんは外を指差し、「行き交う人の影が絶えなかった」と言葉を続けた。
いまはすたれきった広小路商店街。アーケードだった支柱はサビつき、天の波板は曇るがまま。生き続ける店は数えるほどだ。昨日、今日にすたれたものではない。すたれ方にも年季が入っている。
昔はニュースも映画館で見たという話題をきっかけに、私と女将さんで、昭和20年代、30年代のラジオやテレビの主題歌を歌い始めた。Felix the Cat、赤胴鈴之助と古い歌をたぐり寄せているときに新しいお客さんが入ってきた。
店が2010年に戻った。
金時・・・口にするだけで好きになる名前。
年月をダシにしたうどんのまずかろうはずがない。
歴史を巻き込んだ巻き寿司のまずかろうはずがない。
書くためにこう書くのではない。
巻き寿司のど真ん中に置かれたカンピョウ3本、ぎゅっと噛みしめる。うどんの汁を底まで飲み干し、丼を空にする。
時間も旨みのひとつだと感じてもらえると思う。
世の中が変われば店がつぶれるのは当たり前みたいな広小路商店街にあって金時は現役でいる。ずっとおいしかったからにちがいない。
女将さんは30年間にわたって公文式教室もやってるため、営業時間はこんな具合 |
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